無断放置の千羽鶴と偏向教育の現状…長野市・松代大本営跡「象山地下壕」 

長野県

長野市郊外に松代という街がある。江戸時代には松代藩の城下町として栄えた小さな街で、表向きには歴史的な街並みを散策する観光地として知られている。

だが我々取材班が歴史散歩のためだけにわざわざこの土地を訪れるような事はない。この松代には太平洋戦争の終戦間際、本土決戦に備えて国家中枢機能をまるごと地下に移そうとする一大国家プロジェクトが極秘のうちに展開された。現在も「松代大本営跡」と呼ばれる地下坑道が無数に張り巡らされている。

松代の城下町から南に外れた象山の麓一帯にやってきた。今では鄙びた住宅地と廃屋が立ち並ぶごく普通の街である松代だが、ここに松代生まれの偉人、明治期の実業家・岩下清周の生家が残っている。

この岩下清周という実業家は大阪で活躍し、衆議院議員、箕面有馬電気軌道(阪急阪神ホールディングスの前身)の初代社長、大阪電気軌道(近鉄の前身)二代目社長という凄まじい経歴の持ち主で、あの生駒トンネルの建設を実現させた人物だ。

そんな物凄い実業家の記念すべき生家なのだが、敷地の中を見るとガラクタが置かれ中途半端に放置されたままになっていた。

さらに象山地区の一角に「象山神社」がある。その名の通り幕末期の松代藩士・佐久間象山を祭神に祀る神社である。

江戸木挽町(今の東銀座あたり)で私塾を開き、門下生にあの吉田松陰がいたという人物。

佐久間象山の勧めで「海外に出て欧米で色々学んでこい」と言われたかどうか知らぬが吉田松陰は海外脱出を目論みペリーの艦隊に侵入し密航を企てようと試みたが失敗、江戸伝馬町の牢獄に二人ともぶちこまれた事もある。

松代生まれには大胆な人が多いんですね。

その後松陰は安政の大獄で再び伝馬町の牢獄に入れられ処刑、一方の象山は京都三条木屋町で暗殺され54歳で生涯を終えている。

象山神社境内には長野県史跡指定の「象山先生誕生地」も存在する。本名は佐久間啓之助というが、生家の近くにたまたま象山という山があるので、佐久間象山と名乗っていたんだとか。

象山一帯は戦前までは養蚕が盛んで桑畑が広がる農地だったが、これを軍が買い上げて当時の世帯500戸のうち130戸が立ち退き、その上で全国各地から労働者がかき集められ突貫工事で地下坑道の建設が始まった。

この辺のボロボロの廃屋も、恐らくその当時から残されていたものだろうか。養蚕業を営んでいたこの地区の農民は、仕事道具すら持ち出しを禁じられ(戦時中に派手に引越し作業をすると周りにバレるのがマズイという理由で)、裸同然で疎開させられた。

1944年11月11日に地下坑道の建設が始まってから1945年8月15日(終戦日)を迎えるまで、たった9ヶ月間の話でしかない。その間に延べ人数約61万人、当時の金額で6000万円という超巨大規模で、日本の国家中枢機能を極秘裏に移転させる計画を進めていたわけだ。

しかし工事状況の進捗が75%まで進んだ所で終戦を迎え工事はストップ、以後地下坑道は無用の長物と化し長らく封印されていた。

だが1985年になり地元高校(篠ノ井旭高校、現在の長野俊英高校)が沖縄での修学旅行でガラビ壕を見学した事をきっかけに地下壕の保存運動が始まり、松代大本営跡のうち象山地下壕の一部500メートルが落盤防止の補強工事を行った上で1990年に部分公開されるに至った。

それ以来、象山地下壕の入口付近には連日のように戦争遺構を見物に客が訪れるようになった。平和利用のための公開、という名目で入場料も取っていない。

しかも公開の経緯が経緯だけに、やけに中高生の修学旅行での団体客が目立つのである。

また、地下壕入口には保存運動に携わった地元・長野俊英高校の運営する交流所「およりなして」の建物も新しく出来ていた。よくわかんないが高校生と学校の先生と思しき人が物凄くぎこちない接客でグッズを売っている。

地元高校、オキナワ、平和運動…まあ言わずとも左翼臭が漂う訳であるが…

地下壕入口に隣接してさらに「もうひとつの歴史館・松代」という展示施設も併設されている(入場料200円)。

こちらも地下壕内の工事で使われた器具や写真、資料が多数展示されていてお勉強になる訳だが、受付の所に明らかに左翼団体と思われるステッカーが貼られていたり、在日朝鮮人関係の資料がやたら充実していたりと、既に怪しさ全開の様相を呈してきた。

つまり「松代大本営跡」が左翼団体の反日プロパガンダ施設として使われている訳だ。

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