国際通りからガーブ川の暗渠に沿って続く商店街をひたすら突っ切った先、アーケード街が途切れて車道に挟まれた南側一帯に樋川という地区があり、農連市場という戦後のバラック市場がそのまま残るキョーレツな風景が今でも見られる。
マチグヮーの太平通り商店街を抜けた先、近くには本島南部へのアクセス経路となる開南バス停や神里原社交街などがあって古くから栄えている場所だ。信号を渡った向かい側には沖縄そば屋なんぞに加えて地元のおばあやおじいがやってる露店がひしめき合っていたり、街並みはおおよそ東南アジアの発展途上国のようだ。
農連市場や周辺の商店にやってくる沖縄人の腹を満たす沖縄そば屋の「田舎」。牧志公設市場裏のちとせ商店街ビル内にも系列店があるが、こちらの店舗は外から丸見えのカウンター席。350円で食えるソーキそば目当てに買い物客に限らずタクシードライバーまでも路駐してまで食っている。
太平通りの出口からまっすぐ歩いて行くと、これから行く目的地である農連市場へと辿り着く。農連市場は「沖縄一朝の早い市場」として知られている那覇で最もマニアックな市場。昼前に来たら残念ながらあちこち店じまいし始めていて、既に活気に乏しい。
農連市場の周辺も惣菜屋や色々な店が並んでいてさぞかし賑やかそうな感じだが、本当はもっと朝早くに来ないとならない。早ければ午前1時とか2時くらいから店が開いてるらしい。その時間帯は朝とは言わないぜ。
そういう事情は知ってはいたのだが、ただでさえ朝の弱い旅行者に早起きが出来るはずもなく、1回目は昼前に、2回目は朝8時半くらいに訪れた訳だがそれでも店じまいモードは変わらず、殊の外難易度が高い。
農連市場自体もかなりヤバイバラック建築なのだが、その周囲にある店舗も相当ガタが来ている。築年数古過ぎて自壊しちゃったのかな?と思ったが恐らく火事で崩れてしまったまま放置プレイかまされている店舗跡。
どうやら噂の農連市場はこの建物らしい。玄関口には阿吽のシーサーがお出迎えしている。ここもやはり戦後の闇市から生まれた市場らしく1953年に開設されて以来建物はそのままらしい。
趣きからしていかにもドサクサ感に溢れているが、半ば観光地化した牧志公設市場辺りの雰囲気とは真逆の土着的な空気に満ちている。
この農連市場のヤバさはガーブ川の土手ギリギリに沿って今にも飛び出しそうな勢いで継ぎ接ぎの板張りが建物を支えている事だ。もう既に日本の市場ではなさそうな情景です。ノリとしては完全に東南アジアですね。
生活排水が垂れ込めるガーブ川はこの農連市場辺りから暗渠に隠れて国際通りを出て美栄橋手前辺りまでじっくり真下を流れている…というか淀みきっているので流れが殆ど無いんですが。
恐る恐る農連市場の建物内部に足を踏み入れてみよう。中に入っても凄まじいバラック建築である。
戦後から全く変わらず続けられている市場はセリではなく「相対売り」の制度を取っていて、直接農家から農産物がかなりお安く買えるシステムとなっている。基本的には那覇近郊の農家の直売で、朝も早くから買い物客で賑わうらしいが…
昼前に市場に来ても殆どの農家が撤収した後で、ポツリポツリと人が座っているだけ。なんとも残念な感じだ。ちゃんと看板を掲げて商売している店は少数で、だいたいが通路の両脇に個人の農家が勝手にダンボールを並べて農産物を陳列して販売するスタイルとなっている。
市場のスタイルもかなりテキトーでゆるい感じだがこの建物もよく崩れ落ちてしまわんものだなと感心する程のDIYっぷり。継ぎ接ぎだらけの屋根、計算されているのかどうかよく分からない梁や柱の配置…そのバラック建築は芸術の域に達する。
気になったのが農産物を売りさばく農家同士の場所の取り決めである。こうやって名前を書いたダンボールで「占用」しちゃう訳ですね。しかも八百屋の屋号とかじゃなくてヒデ子さんが自分の名前を書いてらっしゃいます。ヒデコ占用。ヒデキ感激みたいだな。
そんな文化遺産並みな存在感を放つ、那覇のDEEPな農連市場周辺をもう少し色々と探索してみる事にする。
売り上げランキング: 206670