映画「飢餓海峡」の風景、本州最北端の軍都!下北半島・むつ市「大湊」を訪ね歩く

<1ページ目を読む

本州最北端の遊郭「大湊遊郭」の存在は古い映画や文献に記される程度であまり知られたものではないが、明治時代からの軍港で遊郭が築かれたという歴史は、横須賀など日本各地の軍都の数々といきさつが被る。

戦前までは大湊に旧海軍の大湊警備府があり、多くの軍人が駐留していた。

大湊上町の一角に今も残る、見た目には石造りの二階建ての屋敷。周りの建物と比べると明らかに異質な存在であり、一見すると大湊遊郭の風情をそのまま留めているように思える建物だ。

玄関口に一歩近づいてみる。屋根から外壁から柱まで全て石造りに見えるが、実は石に似せた擬石であって、実際は木造建築だそうだ。

軍都の盛り場の栄華を色濃く残す重要な建物であるが、この屋敷は文化財保護も受けておらず、その名前や歴史すら覆い隠されて、ただひたすらに放置され続けている。

玄関上の鬼瓦。新むつ旅館の鬼瓦のように屋号が刻まれてはいなかった。外観を見る限り全くもって謎の建物である。

屋敷の玄関は閉ざされたままひっそり静まり返っている。例えば立ち入り禁止の札とか、そういったものすら全く何も示されていない。

玄関扉の上には家紋と鶴?の装飾が刻まれている。保安調査済と書かれたステッカーが貼られているが見た所かなり古いもののようだ。

建物右側の塀を見ると「勝手口」と矢印案内しているプレートが掲げられている。右から左に読む所がいかにも戦前仕様である。

塀はそのまま建物の真裏に回り込んで続いている。勝手口は反対側に付いているのだろう。建物横手からも建築美をいやがうえにも見せつけられる。こんな美しい建物が誰の目にも留められずただ放置されるだけというのが心苦しい。

建物左側を見ると、小さな日本庭園の残骸のようなものと、その奥にあばら屋が残っている。

屋敷の左手からは一番坂という登り坂になっていて、建物の横っ面を拝む事ができる。

裏側を見ると、2つ並んで開きっぱなしにされた鉄扉の中に小窓が見える。一体何の部屋に使われていたのだろおうか。外側からでは皆目見当がつかない。

蔦にがんじがらめにされた屋敷の外壁は、その上側が侵入者を明らかに拒むかのごとく鋭利な忍び返しとなっている。忍び返しは錆びついて所々折れ曲がり、蔦と同化しようとしているかのようだ。

敷地の裏手一帯は外から眺めても凄まじい状態に変わっている。蔦だらけという以上に森に還ろうとしているかのような勢いだ。こうなるまで一体何十年放置され続けてきたのだろうか。

蔦の隙間からバラック建ての家屋が顔を覗かせているが、何の用途で使われていたのかは不明。

屋敷の本体からは離れとなっているコンクリート製の構造物。これも何の建物なのか分からない。倉庫という訳でもないし。屋上部分には手すりのようなものが付いている。

改めて坂の上から屋敷の敷地を眺める。表側だけ見るとその美しさはなかなかのものだが、裏に回るとまるで妖怪屋敷さながらの不気味さである。軍都・大湊には10軒の貸座敷があったと言われる。この大湊に触れた文学作品に水上勉原作の推理小説「飢餓海峡」があるが、1965年に映画化された(監督・内田吐夢)というかなり古い作品だ。

当レポートで紹介している「石造り風の屋敷」について:既存の書籍等の情報を元に「元遊郭の妓楼」であるとの説明をしていましたが、遊郭研究の第一人者である遊郭部氏のレポートによるとこの建物は遊郭とは全く何の関係もなく、軍の将校が利用していた料亭旅館であったとの事。なお、遊郭跡の場所もここではなく大湊駅に程近い「大湊新町」付近で、かつて「小松野遊郭」と呼ばれていたそうです。謹んで訂正致します。

>3ページ目を読む


The following two tabs change content below.
新日本DEEP案内およびDEEP案内シリーズ管理人兼編集長。2007年「大阪DEEP案内」開設、2008年「東京DEEP案内」開設、2009年「日本DEEP案内」開設、2010年「世界DEEP案内」開設、2013年「新日本DEEP案内」開設。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。首都圏を中心に飛ぶような売り上げを記録し増刷決定。
トップへ戻る
Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.