大湊の一番坂を登りきると、車道を挟んだ向かいに常楽寺という寺がある。参拝に訪れる人も滅多にいないような物静かな寺であるが、境内には旧海軍の戦没者を祀る石碑がひっそり建っている。
日本全土を襲った激烈な太平洋戦争の本土爆撃で、終戦間近の1945年8月9日に大湊が空襲を受けた。その時の死者をこの常楽寺で弔っているのだ(→詳細)
他にも、布施ちよ女という女性の墓が祀られている。個人の墓にしてはやけに目立つ場所にひと際大きく置かれているので、もしや大湊遊郭と関わりがあるのかと思い調べたが、旧海軍の施設前で大福餅を売っていた婆さんで、水兵達に慕われていたという。
恐山信仰で知られる青森の寺では、こうして服を着せられたお地蔵様がさも大事そうに祀られている姿がよく見られる。こういった独特の地蔵信仰は東北各地で見られるが、やはりメッカは青森県に在る。
常楽寺の門前に建つとまっすぐ一番坂が海側へ下っていくのが見える。先程登ってきた道だ。
常楽寺の前を走る国道338号沿いには次々と放ったらかしの廃屋が姿を見せていて、さながら廃墟のオンパレード状態になっている。
さらに建物の右半分が屋根から崩れ落ちている廃屋。
崩落した屋根の部分は壁もろとも崩れ落ちていて部屋の中身が丸見えになっていた。かつては確実に人の営みがあった場所のはずだが、だからこそ廃墟となった家を見ると他人のものだと分かっていてもどこかしら物悲しさを覚える。
海に向かって傾斜のかかった土地に段々畑のように民家が重なって建てられている箇所も見られる。
これだけの数の家屋が残っているのだから、昔はかなり街として賑わっていたに違いない。
大湊が旧海軍の街だった戦前の下北郡大湊町には10万人もの人口が居たと言われている。それが戦後、田名部町と合併し、さらに周辺町村とも合併した後の現在のむつ市は人口6万人ちょい。
長い期間で人口の推移を見ると、大湊が凄まじい過疎化を経てきた街だということを、民家と廃墟の数の多さで実感するのであった。国家規模で少子高齢化を迎える今後の日本では全国各地で起こりうる事態になるかも知れないが…