普天間基地移転先「名護市辺野古」はどんな場所なのか!辺野古社交街「アップルタウン」

本島北部

辺野古という地名は沖縄に行った事のない人間でも何度もニュースで耳にした事があるだろう。米軍普天間基地の移設先候補に選ばれているが政治の吸った揉んだでゴチャゴチャしている事くらいは知られている。

そんな我々取材班も辺野古と言えばいつも沖縄とは無関係な大阪の梅田あたりで毎晩プロ市民のおばさんがヒステリックな声を挙げて「辺野古に基地をつくらせない!」などと書かれた横断幕を掲げているのを何度も見ていたので、辺野古という地名自体はよく知っていた。とにかく普天間移設問題に絡めてプロ市民がギャーギャー騒いでいる舞台である。

そんな辺野古という街は一体どんな所なのかこの目で見てみたいという思いで、沖縄旅行の折、この街を通りがかった。とはいえコザから国道329号をひたすら走っていれば嫌でも辿り着くのだが。沖縄本島北部、名護市の中心市街地からかなり手前の本島東海岸に面した場所にある。

辺野古の街の一角に「WELCOME APPLE TOWN」とデカデカと書かれた看板が出ている。しかも側面には「THANK YOU VERYMUCH」とある。

このアップルタウンという地名の由来が大看板の真下に置かれた案内板で読むことが出来る。米軍海兵隊基地キャンプ・シュワブの建設が始まった直後の1957年、この場所に新たな宅地開発を行った。

それは金武やコザみたく米兵を相手とした店などが並ぶ社交街となったのだが、その開発を全面的に支えたのが米軍の民政府土地課長アップル中佐で、地元民が氏への感謝の心を込めて中佐の名前を町名に冠して「アップル町」と名付けたのが元だというのだ。

沖縄の米軍基地と聞くと本土の人間でも「敗戦で基地を押し付けられた」などとネガティブなイメージばかりが先立つが、それも沖縄の言論空間を封じ込める左巻き偏向地元紙の影響があるからだ。

そもそも辺野古の米軍基地自体、1956年に地元民の誘致活動の結果建設されたものである。

キャンプ・シュワブにいる海兵隊はもともと1953年に朝鮮戦争休戦後の再編で岐阜県と山梨県に駐留していた。だが当地で猛烈な反基地運動に遭い、その結果当時米軍統治下だった沖縄へ移ってきた。だから厳密には「本土に基地を押し付けられた」と言うべきかも知れない。

しかし辺野古にキャンプ・シュワブが出来て半世紀以上経ち、米兵達を受け入れていたかつての社交街の繁栄は失われた。現在の辺野古アップルタウンは、廃業した商店ばかりが立ち並ぶ過疎地域の一角として、随分しょぼくれた街並みになっている。

ちょいちょいと商店兼家屋の建物が残ってはいるのだが買い物客どころか住民の姿すらない。寂しい事この上ない。一応名護市に属しているが、中心市街地が山原を挟んで遠く離れた本島西海岸沿いにあって、生活圏としては周囲からも隔絶されている。

とは言っても完全にオワコン状態かと言う訳でもなく、まだまだ現役そうな「パーラー」(軽食喫茶。沖縄ではこう表記されている事が多い)も残っていたり、街はそれなり地道に生きている。

現役の飲食店は派手な色遣いにペンキが塗られているので一目で分かってしまう。やはりアメリカ人好みな料理を扱っている店が多い模様。

しかしよっぽど地域に仕事がないのか知らんが、唐突に人材派遣業者の立て看板が置かれていたりして、なんとも居た堪れない気持ちになる。ただでさえ沖縄は失業率が高いのに、人材派遣に頼らざるを得ない世帯はどうやって暮らしているのだろう。

どの建物も概ね古びていてコンクリートが物凄く変色している。アップルタウン造成時からそのまま残っている建物だろうか。

戦後10年以上経過した時期に造成された新しい住宅街なのかして、どの道を通っても比較的道幅が広い。その割には車通りも殆どないので、随分ガラーンとした印象を受けてしまうのだ。

そんなアップルタウンの一角。辺野古社交業組合事務所の建物。事務所とは書かれているけど雨戸が締め切られたままになっていて最近使われた形跡がないんですけど。その雨戸の部分に世界の国旗が描かれている。日本に加えて他国は欧米諸国ばかりなのが、コザ銀天街で見かけたものとは随分違う印象。

「地域と共に歩むが我らがねがい」

…米軍基地を地域が誘致した辺野古の住民達の胸の内はいかようだったか、平和ボケ真っ只中に生きる我々の世代には想像も及ばないが、少なくともこの土地を訪れると「基地は押し付けられたもの」と沖縄県民被害者論を一方的に振り回すメディアの主張は、いささか偏った物の見方だという事が理解できよう。

参考ページ
沖縄県名護市辺野古区ホームページ

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