【疑惑】日本のシンドラー・杉原千畝の出身地は「岐阜県加茂郡八百津町」ではないのか

テレ東とかでよく流れている「日本人は凄い」系の番組なんかで取り上げられる事もある、第二次世界大戦中、リトアニア・カウナスにてナチスドイツからの迫害から逃れるユダヤ人などの命を救うために、外務省の意向に反して“命のビザ”を独断で発給した元外交官として知られる「日本のシンドラー」こと杉原千畝。その出身地であるとされる岐阜県加茂郡八百津町を訪れる機会があった。

この八百津町、岐阜県の中でも特に工業地帯で外国人労働者が多く住んでいる中濃地域にあって、一昔前は名鉄八百津線というローカル線が隣の可児市からひょろひょろ伸びていてその終着点に八百津駅があったものが、利用者の減少で2001年9月末に廃止されて以来、鉄道の通らないどん詰まりの田舎町となってしまっている。人口1万人そこそこの、過疎化も激しい地域だ。名古屋からは国道41号線経由で片道1時間20分、約50キロ。通勤圏からも完全に外れている。

町域の多くを山林が占め、林業を除けばさしたる産業もなく発展の要素も見当たらない同町では数少ない町おこしのコンテンツとして「杉原千畝誕生の地」を大々的にアピールしている上に、杉原千畝記念館という施設まで存在している。八百津町の中心地から国道418号を4キロほど登った場所にある「人道の丘公園」の一角にその記念館が建ち、これが同町の有力な観光資源として対外的にも認知されている。

これまで土建屋ハコモノ県政が幅を利かせて豪華な“道の駅”を県内各所に濫造しまくっていた岐阜県だけに、殆ど人も寄り付かない山奥にあるご立派な公園をひと目みて「またいつもの展開か」と突っ込みたくもなるのだが、ここも4期16年務めたキャリア官僚上がりの梶原拓知事時代の1992年に6億5千万円を掛けて整備されたものとなっている。八百津町自体が主要な街道から外れた奥地にあるゆえ、観光客がふらりとここまで足を運ぶのも「ついでに立ち寄る」感覚では難しい。

しかし、さすがにかの有名な「日本のシンドラー」ともなれば、この手のエピソードが好きな“人権派”の方々に加えてユダヤ人、杉原が勤務していた領事館のあったリトアニアの関係者なども多く訪ねているようである。当然ながら岐阜県民の中にも千畝が岐阜で生まれた人物である事を誇りに思っている人間は多分にいることだろう。そして今なおその名前が国際社会の中でも語り継がれる。確かにそう考えればたいそうな偉人である。

杉原千畝自身は外交官として国の意向に反した行為をしたという建前上、そのキャリアを棒に振った事はもちろんのこと、戦後の日本社会の中、昭和61(1986)年に86歳で没するまで職を転々とするなど、一貫して日陰の人生を辿っていたとされる。現在の日本政府による名誉回復が行われるまではかなりの年月を要し、2000年に正式に名誉回復がなされたが、既に本人の死後の話である。なお記念館については、同2000年に開館したものであるが、この公園自体はそれ以前からあったという事になる 。

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ちなみに、杉原千畝記念館の初期の名誉館長には“ムネオハウス”でお馴染み、ロシア・旧ソ連圏とのパイプ役として実績があり、ソ連崩壊後のリトアニア共和国樹立の際、外務政務次官として同地を訪問した事のある鈴木宗男が選ばれたが、その後の同人の「疑惑の総合商社」騒動でマイナスイメージが付くのを恐れてか、同館は事前連絡もなく一方的に名誉館長職を解任し、鈴木宗男の肖像画の額縁が館内の倉庫にぶち投げられていたとの笑えるエピソードもある。

「杉原千畝は八百津町出身ではない」 疑惑がこじれにこじれている件

リトアニア・カウナス市にある杉原記念館。旧日本領事館の建物で、当時の執務室がそのまま展示されている
リトアニア・カウナス市にある杉原記念館。旧日本領事館の建物で、当時の執務室がそのまま展示されている

しかしこの状況に冷水を浴びせる形となったのが、2016年、地元ローカル局が行った杉原千畝の出生地についての「疑惑報道」である。杉原の出生地は八百津町ではなく実は「武儀郡上有知(こうずち)町」、現在の美濃市にある教泉寺という寺で、その根拠となる杉原の自筆メモが故意に改ざんされ「加茂郡八百津町」に書き換えられていたという“疑惑”が地元のCBCテレビの報道番組で報じられて以来、翌2017年には八百津町がそれまで推し進めていた“杉原リスト”のユネスコへの申請が取り下げられ「世界記憶遺産」登録が見送られる事態にもなっている。八百津町が保管している戸籍にもこの教泉寺の住所が出生地として記述されているという。

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杉原千畝の出生地が八百津か美濃市かで揉めるきっかけとなったのが、どうも唯一存命である千畝の直系の子である四男と、千畝とその妻の死後遺産相続をした、現在も“杉原千畝財団”のNPO法人を運営する長男の子(つまり千畝の孫)二人との確執から来ているらしい。千畝の妻(2008年死去)の遺言に基づき長男の二人の子に遺産相続されている事について、遺言の有効性を争い裁判沙汰にまでなっている。傍目にはよくある親の遺産争いといったところだが、そもそも先の「疑惑報道」も四男の呈した“疑義”が元となっている。

さらに2018年10月、美濃市の教泉寺に「杉原千畝生誕地案内板」が新たに設置され、この除幕式には四男が立ち会っている。また美濃市には「千畝町」という地名もあり、杉原千畝の名前はそこから取られたとの話もある。さて、真相のほどはいかがなものか…

しかし八百津町側も町役場の近くの土地に「杉原千畝実家跡」の案内看板をぶっ建てて「1900年1月1日 八百津町で生まれる」と記していて、千畝は美濃市出身とする四男側と、従来通りの立場を貫く長男の子サイドに与する八百津町側とでは主張が真っ向対立している形になっているわけだ。実はこの看板も元々は杉原千畝“生家跡”と書かれていたものが、先の報道を受けて、しれっと“実家跡”に改められている。2016年春に置いたばかりの看板を1年も経つか経たないかで内容を書き換えた形になる。

それから一部の千畝マニアな方々が言う「こんな山奥から早稲田まで出ていったなんで凄い」という意見も、ちょっと違和感がある。そもそも千畝の一家は父親が税務官として働いていた関係で、東海・北陸地方各所を転々としながら暮らしていた事情があり、出生届を出したのが父の実家があった八百津町という事は確かだが、当時一家が住んでいたのは勤務先の上有知税務署に近い教泉寺の借家で、その後も福井県や三重県、愛知県などに何度も引っ越していて、千畝が成年前まで最も長く住んでいたのは八百津でも美濃市でもなく「名古屋市」なのである。

最後に八百津土産の栗きんとんを買うために立ち寄った和菓子屋「緑屋老舗」のすぐ右隣に、とてつもなく何かをこじらせてしまっているお宅を発見。どうも街の老舗の布団・洋服店のようだが、店先が落書きだかアートだかよくわからん装飾だらけになっていて、八百津町の観光PR垂れ幕に「ウソピョン!」とマジックペンで付け加えたものを置いてある。なかなか辛辣である。唯一と言ってもいい街の自慢だったものが全力で否定されてしまっては、その先一体どうしろというのだろうか。

店のオヤジによれば、杉原千畝は八百津町にはたったの半年くらいしか住んでいなかったのに、それで安易に町おこしを始めたのが前の町長で、結局今になって“出生地は八百津町ではない疑惑”が噴出して、それ見たことか、八百津町の行政はアホだと主張している。どこにも行き場のない、田舎町の偏屈者であろうが、そんな偏屈者の主張も一理あると言わざるを得ない。

もし八百津町に非があるとするなら、“町おこし”ありきで「八百津の偉人、杉原千畝」と言わんばかり、あたかも同町で生まれ育ったかのように誤解させる主張はやめて、せめて「八百津にもゆかりがある」くらいに収めていれば、こんなゴタゴタにはならなかったのではないかという事か。

ただ確かに言えるのは、こんなどん詰まりの田舎町で大人になるまで過ごしていたら、早稲田大学に行って“奉仕の精神”を学んで、外交官になってよもやユダヤ人を救う人生は歩んでいなかっただろうな、ということである。自らのキャリアを犠牲にしてまで己の良心と“人道”に従った杉原千畝の価値観の元となったのは、「早稲田奉仕園」というキリスト教系施設との関わりがあったからだ。その住所は現在で言う、反日極左の巣窟と揶揄される「西早稲田2-3-18」である。


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新日本DEEP案内およびDEEP案内シリーズ管理人兼編集長。2007年「大阪DEEP案内」開設、2008年「東京DEEP案内」開設、2009年「日本DEEP案内」開設、2010年「世界DEEP案内」開設、2013年「新日本DEEP案内」開設。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。首都圏を中心に飛ぶような売り上げを記録し増刷決定。
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