沖縄本島南部の戦争遺跡巡りが続く訳だが、本島最南端と言われる喜屋武岬も一度訪問してみたかった場所の一つだった。もっと遠いものだと勝手に思っていたがそうでもなかった。那覇市街から車で1時間足らずで着いてしまう。
糸満市街地を抜けてひめゆりの塔へと抜ける国道331号から外れて農道と見紛うような細い道をずんずん抜けていく。カーナビ任せにしているぶん楽だが、そうでもないと現地には案内看板の類も乏しく、少々分かりづらい。おまけに道も細いし車がすれ違ったら面倒臭い事になる。
道すがら出くわした看板は地元民による「とびだし注意」の交通安全看板だった。
「スピードおとして よんなーよんなー」
沖縄旅行の最中でこうした手書きの変な方言看板がちらほら見かけられる。「よんなー」は調べてみると、ゆっくりの意味だった。そのままでした。
だだっ広く畑の広がる赤土の農場を越えて、サトウキビやら色々な草が背丈程の高さまで生える見通しの悪い細道をずんずん過ぎていくとようやく喜屋武岬へと辿り着く。本島最南端という事で訪れただけだが、この場所もまた沖縄戦の悲劇の舞台として語られる事が多い。
沖縄では人名・地名でも常識的だが「喜屋武」と書いて「きゃん」と読むのは内地の人間の感覚からは慣れない。突端とか先っちょとかそういう意味がある。そもそも喜屋武というのも当て字でしかない。付近は沖縄戦跡国定公園の一部「喜屋武岬園地」となる。土産物屋とかは一切無く、公衆トイレがある程度。
断崖絶壁を臨む高台に沖縄戦の惨禍を語り継ぐ「平和の塔」が置かれていた。空や海の色と同じ空色をしているコンクリートのオブジェ。
その中央部が丸く空いていて、そこから空と海、地平線を眺める事が出来る。足元には献花台。昭和26(1951)年に建立されたこの慰霊塔には沖縄戦で命を落とした1万人以上の遺骨が奉納されている。
今ではその歴史すら忘れられたかのようにひっそり佇む塔。その裏側にはいつしか誰かが置いて行った供え物や珊瑚が積み上げられているのが見えた。
沖縄戦において那覇市街地を追われて本島南部に後退していた日本軍や一般住民らが最後に追い詰められてこの岬から身を投げて死んだ。いわゆる「バンザイクリフ」やら「スーサイドクリフ」などと呼ばれる岬の一つ。沖縄本島だけでなく硫黄島やサイパンあたりにも沢山ある。
崖の手前付近にも地蔵や千羽鶴などがわずかに置かれている。断崖絶壁には転落防止のフェンスといったものは一切張られていない。観光地らしい整備が一切なされておらず、その当時の様子が忠実に残されている印象がする。
沖縄戦のさなか逃げ場を失った人々が意を決して飛び降りて死んでいった岬の上に立つ。その当時、死を選んだ人々と殆ど同じ風景を見ているはずだ。約65年前、今と変わりのない空と海、それが最期に見た景色だったろう。
喜屋武岬の崖下を見るとかなりの高さがある。ここから落ちればひとたまりもないのは確かだ。喜屋武岬が沖縄本島最南端という表現が多いが、厳密には東に1キロ程離れた荒崎付近が実質的な最南端。
崖の下によく目を凝らすと、何やら釣り人と思われる地元民の姿があった。何か海苔とか貝類とか採ってるんでしょうかね。
戦後長らくこの崖下からは飛び降り自殺した兵士や一般住民の遺骨が採れたという。ここから摩文仁あたりまでの海岸沿いには沖縄戦の集結まで死を覚悟しながら崖下の岩陰などに隠れ住んでいた住民が大勢居たらしい。
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