【沖縄にもある遊郭】琉球王朝時代から続く沖縄県唯一の遊郭!那覇市「辻」を歩く

那覇市

那覇には「辻」という場所がある。日本語の四つ角の意味の辻ではなく、琉球の言葉で「高い所」「頂」を意味するチージという言葉に基づく地名だ。チージは琉球王朝時代から戦時中まで420年近く続いてきた伝統的な遊郭だった。そこは内地の遊郭とは違い、色街の全てが女性だけで構成されているという特殊な土地でもあった。

だが戦時中、1944年10月10日の空襲で琉球王朝時代から420年の歴史が続いていたチージの遊郭は跡形もなく姿を消した。そして戦後の辻は過去の歴史の因縁を引きずるかのように沖縄県唯一の特殊なお風呂屋さん街として今日に至るまでその地名を轟かせている。

元遊郭にはありがちな「料亭」の数々も辻の地には何軒も揃っている。特に「料亭那覇」は伝統的な琉球料理と琉球舞踊が楽しめる老舗であって、地元民の慶事にはよく使われる。老舗とは言うが創業は戦後の昭和23(1948)年である。

それ以外にも何軒か料亭らしき建物はあるにはあるのだが、この「料亭ことぶき」のように既に廃業していて残念な姿を晒している場所も見られる。

辻の中心地にある「特定有料老人ホーム松風邸」もまた料亭だった建物だが、元々あった「料亭松乃下」が2009年に破産した後、老人ホームに建て替えられている。ここも料亭那覇に次いで、昭和27(1952)年に開業している老舗の料亭で、「ティーハウス・オーガストムーン」という米軍向けの飲食店が隣接していた場所だった。

遊郭時代の辻は北側が上村渠(うぃんだかり)、南側が前村渠(めーんだかり)という2つの集落に分かれていたが、今ではその区分もない。だが「お風呂屋さん」が南側に集中しているのに対して、波之上宮に近い北側にはホテル街が形成され、住み分けが成されている印象がある。

今の辻の街もそうした特殊産業の店舗がある以外は、那覇の街外れの寂れた住宅地といった風情である。だがこの土地は戦前までは独自のしきたりを守り生きる尾類(ジュリ=遊女)が暮らしていた遊郭だった。そんな色街としての歴史を歩んだこの街の名残りを探すのが今回の目的だ。

まずは辻の北西端にある三文殊(さんもうじ)公園。三人寄れば文殊の知恵と言う諺とは無関係らしく普通の児童公園に見えるが公園の真ん中に小高い山が見える。この公園内には御嶽があるらしい。

花街でもあった辻(チージ)の遊郭は遊女ばかりでなく芸者もいて、料亭那覇などの伝統的な店も残っている一方で、廃業したまま手付かずの料亭の建物もそのまま放置されている。

三文殊公園の西側の区画にやたらでかい料亭跡の敷地がある。どうやら遊んでいる土地が月極駐車場として使われているらしく看板が張り出されている。

ご立派な料亭の正門にはただ「左馬」とだけ書かれたごつい看板が残っている。その奥からはこれまた立派な琉球家屋風の料亭の建物が見える。

この「料亭左馬」、辻の遊郭では唯一昔の面影を留めている実はかなり貴重な建物なのである。「300年を越す歴史を持つ本格的な料亭」だそうだが、今では見る影もない。経営不振で元の経営者が手を引いてしまい、跡継ぎもおらず建物も放置されているらしい。

左馬の玄関口。盆栽も雑草の伸び放題になっていて酷い状態。ポツンと取り残された馬の銅像や屋根上のシーサーがちょっと可哀想な感じだ。

沖縄の伝統が失われたような光景を目の当たりにして、非常に勿体無いし切ない思いに駆られる。那覇の行政は朝貢外交よろしく3億の龍柱とか建ててないで、こういう店をもっと何とかした方がいいと思う。

辻の街のほぼ中心地点に、街の歴史を物語る史跡のような場所が存在している。旧「料亭松乃下」に隣接する場所に何やら鬱蒼とした一角がある。

一見素人目には何もなさそうな土地だが石段だけが木々の間から伸びている。これは辻の遊女が崇拝していた御嶽、トウマムイ(当間森)である。戦災で一度は焼失したが地元有志によって再建されたものだ。

トウマムイの高台の上にはコンクリートで作られた小さな拝所(うがんじゅ)がある。沖縄では各所で見かける事のできる拝所。見渡しの良い場所に作ったと思われるが、周囲がジャングル化しているため外からでは見えない。

岩の上に築かれた祠。ここで辻の遊女達は日々祈りを捧げていたのだろうか。トウマムイは唐守森とも書き、唐(支那)へ行く時にはこの場所で旅の安全を祈願したという言い伝えがあるとか。

その土地には辻遊郭の開祖を祀る墓地があった。これは辻の土地の歴史を示す貴重な史跡である。

辻遊郭の歴史は琉球王朝、尚真王の時代の1526年に始まり、その後の1672年、尚貞王によって琉球各地の遊女を辻(ちーじ)、仲島、渡地(わたんじ)の3ヶ所に集め、王府公認の公娼街として開かれた。それぞれ客の階層が違っていて辻は最高級で支那の冊封使や薩摩の役人、仲島は首里の士族、さらに渡地は最下級で一般の旅人を相手にしていた。

明治41(1908)年に仲島と渡地の遊郭は辻と合併して、沖縄唯一にして最大の遊郭となる。戦前には沖縄県の年間予算の5%もの税収を辻だけで稼いでいたという程の一大産業と化していたそうだが、1944年10月10日の空襲で丸焼けになってそのまま遊郭としての420年近い歴史に幕を閉じた。

だがこの場所には辻遊郭開祖の墓がしっかりと祀られている。コンクリートで囲われた中に正面3つ、左側1つの祠がある。

正面3つの祠にはそれぞれ辻開祖、貸座敷組合建之の文字とともに「花の代 ウトゥダルヌメー」「花の代 ウミチルヌメー」「花の代 マカドカニヌメー」と刻まれている。花の(ぬ)代とは辻の別称で、カタカナでなんとかヌメーと付いているのは首里御殿の王女の名らしい。

左側に置かれた祠には「うないみやらびぬ里」と刻まれていた。「うない」は姉妹や女性の集いを、「みやらび」は美童と書き、純粋な若い娘を意味する言葉。つまり「女の里」と言う訳だが、辻遊郭は全て女だけによって自治運営され、誰一人として男が居なかった極めて特殊な遊郭でもあった。遊女や芸者の区別もなく、廓の中で独自のしきたりを守り生きていたのだ。

辻開祖の墓と向き合って「財団法人辻新思会」の事務所ビルがある。戦前の貸座敷組合を経て戦後の辻において伝統芸能を継承している団体。旧暦1月20日(2月末くらい)の「二十日正月」にはジュリ馬の舞踊行列が行われるなど、辻の地では今でも伝統行事がひそかに続けられている。


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