那覇市壷屋の神里大通り(壺屋神里原通りとも)付近は戦後、那覇市域全域を接収していた米軍が、最初に接収を解除したエリアに造成された繁華街で、そこはバラック建ての赤線地帯、神里原(かんざとばる)社交街があった場所だった。1950年代後半、繁華街の中心は国際通りに移り、以後この場所は戦後における那覇の裏歴史を物語る存在となっていた。しかし最近になって神原大通りが道路拡張工事の為に、道の両側の家屋がことごとく解体・撤去されていた。とうとう、戦後を引きずる神里原の街並みも見納めになるのだろうか。
2011年に引き続き2年ぶりの沖縄訪問。那覇に着いて、いの一番に見に来たのがこの神原大通り。道路拡張工事の真っ最中で道路際の建物がすっかり取り壊されてしまい、もぬけの殻になっていた。そう言えば以前から道路の新設工事をやっていた訳で、国際通りから桜坂社交街をぶち抜いて壺屋やちむん通りの前から神原大通りに出る道路が作りかけになっていたのだ。
さらに道路際には「土地収用法第二八条の二の規定による周知措置」の看板が。2年前の写真と見比べたが、バラック飲食街だけではなくマンションや商店の建物も密集していたのに、ものの見事に解体されている。神原大通りの景色は一変したと言っても良い。なお神原大通りは正式には「牧志壺屋線」という。
随分こざっぱり変わってしまった神原大通りだが、スカイブルー一色に塗り潰されたトタン張りのバラック長屋が一部だけだがしっかり残っていた。ここは何度見ても壮絶。今なお那覇の市街地で最もカルチャーショックを覚えた場所の一つである。
通りに面した側には絶賛解体中の飲食店舗の残骸が。ほぼ壊されており、傍らには瓦礫が積まれていた。もうすぐこれらの残骸も片付く事だろう。
後から建て増しされたと思しき三階部分、台風で飛ばされる度に張り替えているのか継ぎ接ぎだらけのトタン板、見た目にも脆そうであまり体重を掛けるとポキっと折れてしまいそうな窓の手すり。単にスナック街なのだが、戦後からここはどんな場所だったか、具体的にはちょっと言えない。
今見ると場末感極まりない一画だが、戦後間近、米軍の接収が解かれて街が開発された頃はこの神里原周辺にはデパートや映画館が立ち並んだりしていたらしい。昔ここが沖縄一の繁華街だったと今言われてもちょっと想像がつかないが、このへんの街並みはおおよそ1950年代で時間が止まっている。店の前に並べられたスナック店舗の椅子の数々も、戦後からこの街を見守り続けていたママ達の存在を示しているかのようだ。
両側にバラック長屋がひしめき狭く陰鬱な路地裏風景を作り出していた「おでん六助」の店舗前。周りの建物が解体されてしまい表の通りから丸見えになっている。おでん六助は隠れた名店で、沖縄の基地問題を熱心に報道し続けていた、かの筑紫哲也氏(故人)も常連だったという。
しかし神原大通りから離れた所に関しては取り壊しを免れたのか、一部健在なバラック飲食街もあるにはある。昼間から玄関開けっ放しでテレビを見ていたり、ママ同士でゆんたくしている。開放的だね。
道路整備が終わった、神原大通り北側の壺屋やちむん通り前には、陶器製の巨大シーサー(壺屋うふシーサー)がお目見えしていた。こいつ、時間が来ると定期的に鼻や口からミストを噴射するんですが、焼き物の里である壺屋の新しいシンボルマークになったようだ。どんどん綺麗になっていく那覇の街並み。そして一方、神里原社交街の歴史や人々の記憶は近い将来、消えて無くなるのかも知れない。