福島県南相馬市小高区…2011年3月11日に発生した東日本大震災を引き金に起こった福島第一原発の事故で、原発から半径20キロ圏内に入っていたために「警戒区域」に指定され、その一年後に「避難指示解除準備区域」に緩和され日中の立ち入りが出来るようになってはいるが、長らく定住不能の無人地帯となっている街の一つだ。
先日、そんな小高区を訪問する機会があった。その玄関口であるJR常磐線小高駅。現在も放射能事故の影響により、休業中。常磐線は現在南相馬市の原ノ町駅から楢葉町にある竜田駅までの間が不通で、この区間は国道6号の福島第一原発に近い高線量地域を通る、1日2往復している代行バスに乗る事になる。このバスも今年1月31日から運行し始めたばかりのものだ。
南相馬市の人口6万3千人のうちの1万3千人が住んでいた小高区。2006年に市町村合併で南相馬市の一部となったが、それ以前は相馬郡小高町である。駅前にある観光マップを見ると、小高駅前から相馬野馬追が行われる相馬小高神社を中心に市街地が開けているのが分かる。
駅自体もずっと休業したまんまになっているので、駅前にある自販機も稼働停止。飲み物もろくに買う事ができない。
小高駅前の自転車置き場は、震災発生直後(3月11日午後2時46分)の状態のまま放射能事故により避難指示が出てしまったので、通学通勤の為に停められた自転車がかなりの数置き去りにされている。4年近くもの間、主を失ったままの自転車である。
小高駅の正面から伸びる中心市街地。福島第一原発から直線距離で16キロしか離れていない。電力は復旧しているので信号機や街灯は正常通りに点灯しているが、人の姿は全く無い。警戒区域解除後は日中の立ち入りは自由になっていて、昼間だけでもここに戻って商売を営む事も可能な状態だが、それでも殆どの住民は避難先から戻ってくる事はない。
そんな状態が長く続いている事もあって、現在も小高区は人口1万人規模の市街地が殆どゴーストタウンのままで、外からの人の出入りも自由に出来る状態になっている。住民の中には定住不能なまま警戒区域を解除された事に不満を覚える人も決して少なくないという。街には防犯用のパトカーも巡回しているが、それでも心ない者による空き巣被害などの不安は払拭できていない。
この小高区とは違って南隣にある浪江町は未だに「帰還困難区域」に指定されていて、国道6号と常磐道浪江インターに通じる道以外はバリケードが敷かれ、通行証を持った住民でなければ町内に立ち入る事は出来ない。あの事故から4年、原発からの距離や汚染度の度合いによってそれぞれの街で状況がかなり違っていた。
警戒区域が解除された直後の小高区は、商店街にも倒壊家屋がそのまま放置され道路を塞いでいたりとかなりめちゃくちゃな状況が続いていたというが、現在は道路の通行に支障がない程に瓦礫の撤去作業は終えられている。しかしよく見ると残った商店の建物なんかも見た目に危険な状態のものがちらほらある。
特に印象深かったのが、この元大衆食堂の建物。建物全体が地震によって大きく右方向に倒れかかっているが、すんでのところで辛うじて倒壊を免れている。建物の前には環境省の名義で「あぶないからはいってはいけません」の注意書きと共にバリケードが置かれている。
地震の凄まじい破壊力を見せつけられるかのように、サッシごと大きく傾いたかつての大衆食堂の玄関口。いつ倒壊してもおかしくない傾き加減だ。
家庭的な趣きを強く残したかつての大衆食堂の店内。何気なく続いていた日常の営みが突然終わりを迎え、ここに居た人々も着の身着のままで逃げる他無かった…そんな印象が強く残る光景である。
そして店内にはあのネズミまでもが置き去りにされていた…震災から4年近くが経過し、被災地の多くが「復興」を意識して歩みを進めているようだが、放射能事故のせいでそのスタートラインにすら立てない人々もいる。
だが、こんな一見大変そうな小高区にも「復興」の足音は徐々に近づいてきているようで、一部の施設は人が常駐している。「小高浮舟ふれあい広場」も2013年4月から再開していて、見ての通り「開館中」である。
それから小高駅前にあるボランティア団体が営業するアンテナショップ「希来(キラ)」も1月31日から営業を開始。隣接する「小高ワーカーズベース」内には、震災後の小高区で初となる食堂「おだかのひるごはん」も週4日(月・火・木・金)だけだが営業を始めている。駅前の自販機はダメだが、このアンテナショップの前の自販機は稼働中で、ドリンクも購入可能だった。
その隣にある「双葉屋旅館」は、将来の定住再開を見越して建物をリフォームしている真っ最中だった。どうやら小高区は2016年4月を目処に避難指示区域の解除を目指しているそうで、そうなれば再び街に人が住めるようになる。
商店街にある洋菓子屋の軒先にも「小高区民と共に必ず復活!!」とオーナーによる気合の入ったメッセージが。元の住民のどれだけ戻ってくるかは未知数だが、地元民は震災にも放射能にも負けず、再びこの街で暮らすべく前を向こうとしている。