保見団地が出稼ぎブラジリアン団地となってからかれこれ20年近くが経とうとしている。トヨタ自動車のお膝元で、その下請けや孫請けで末端の派遣労働者として働く日系ブラジル人と従来の地域住民との軋轢が全く無い訳ではなかった。
1999年には保見団地内に右翼団体が押し掛け「ブラジル人は出て行け」等と大声を張り上げて、日系ブラジル人居住者との間で暴動寸前の騒ぎに発展し、大勢の警官隊が出動した事もある。地区の歴史は決して平穏ではない。
ブラジル人が熱狂的に大好きな国技であるサッカーブラジル代表の試合があろうものなら、団地内では試合を見て絶叫するブラジル人が続出、騒音問題で常に住民を悩ませてきた事もあるし、時折ファミリーパーティーを団地の一室で行うのだが、ベランダでバーベキューをやらかしたりと、国民性の違いが甚だしい。
やはり地球の裏側という距離が感覚の違いをもたらしているのだろうか。
特に頭を痛めたというのがゴミ捨てのマナーに関する問題という。
以前、2006年に保見団地を訪れた時は団地のゴミ捨て場が廃家電や車の部品(バッテリーまで)などの粗大ゴミが常に乱雑に捨てられまくっていて酷い有様だった。
それもそのはず、ブラジル本国ではゴミは路上に捨てるのが当たり前の感覚なんだという。むしろ路上にゴミを捨ててはいけないという考えを不思議にすら思うそうだ。
リオデジャネイロの路上はゴミだらけだが、そこでは路上のゴミを収集する作業員が居て、失業者対策になっているとか。ブラジルの失業問題の深刻さは日本の比にならない(→詳細)
だが日本では不法投棄は犯罪になる。ポルトガル語とローマ字書きの日本語で随分ご丁寧に警告が書かれるようになって、しぶしぶ日系ブラジル人住民もゴミ出しマナーを守り始めたようだ。
2009年秋に再訪問した時にはかなりまともになっていた。やればできるもんだ。
家庭用電灯や乾電池、ペットボトルの蓋まで、かなり細かい分別が行われている。以前と比べると見違える程だ。
過剰なまでに置かれた日本語とポルトガル語が併記された注意書きの看板は、長年の住民同士の軋轢がもたらしたものだろう。
保見団地の集合住宅にはUR賃貸(公団)と県営の2種類があるが、どちらかと言うと団地の東側に固まる県営住宅の方が見た目がボロく、スラム臭さに磨きが掛かっている。
調べてみると、やはり県営住宅の方が家賃が安く、ブラジル人居住者の割合もグッと高くなる。
人っ気の少ない団地の共有廊下。子供や親子連れはおろか老人の姿も見かけない。
愛知万博が開催された2005年頃までは、自動車産業は軒並み好景気で、長引く不況であえぐ日本列島で名古屋だけが持て囃された時代だった。しかしその頃から一変して2008年後半のトヨタショック以降は相次ぐ「派遣切り」で自動車産業に勤める末端の派遣労働者が続々路頭に迷う事になる。
そして保見団地に住む多くのブラジル人も職を失い、本国への帰国者が相次いでいる。隣の岐阜県では再就職が難しい日系ブラジル人労働者を帰国させるために帰国支援金を融資する緊急制度を実施している。(→詳細)
もともと末端の派遣労働者でしかない日系ブラジル人世帯の生活は最低限度に近いレベルのもので、子供を抱えて生活をする世帯の中には、経済的な理由で子供を学校に通わせない親が居たりする。
言葉の壁もあり、地域社会に馴染むのはただでさえ難しい中で、どうしても子供がグレて不良になっちゃったりする。そんな生活では家族に希望が湧くはずもない。
団地の至る所には日本のヤンキーと同じようにスプレーであちらこちら好き勝手に落書きしまくっている光景を目にする事ができる。これをスラム街と呼ばず何と呼ぶのか。ひでえ。
2008年後半、リーマン・ショックに端を発した不況で職を失う等の理由で日本を離れた日系ブラジル人はおよそ3万人とも6万人とも言われている。彼らは地球の裏側にある異国の地で何を得たのだろうか。
今から100年前には同じように異国の地での生活に希望を持って、同じ気持ちで多くの日本人がブラジルや南米各地に渡った訳であるが、その多くが現地で厳しい肉体労働に明け暮れながら過酷な日々を送っていたという。歴史が繰り返されているだけなのだろうか。