80年経っても語り継がれる八つ墓村のモデル「津山三十人殺し」事件現場を訪ねる

国際テロ組織の台頭で世界中どこでも治安への不安を感じる昨今、この日本という国は治安の良さにかけては国際的に評価が高い訳で全国から外国人観光客が押し寄せる傾向もあるが、一方で一見平和そうなこの国では人間同士の些細な感情を元にした陰湿ないじめ、「村八分」というくだらない争いも絶えない。そういう意味では争いのない平和な社会を実現するのは人間社会がある限りは到底無理なのだろうと諦めている。

津山市 美作加茂

今回やってきたのは、岡山県北部の津山市である。名物はホルモンうどん、B’zの稲葉浩志と芸人の河本準一の出身地としてせいぜい有名なくらいで、外国人観光客も滅多に来る機会も無さそうな中国山地の田舎町といったところだ。ここに来たという事は、もう分かる人には分かるだろう。「津山三十人殺し」の事件現場を訪ねてきたのだ。

津山市 美作加茂

今から80年近い昔、昭和13(1938)年に起きた事件であるにも関わらず、あの事件の存在を知らない人は居ない程に今でも語り草になっている訳であるが、津山という地名が付いているにせよ、今でこそ津山市の一部となっている場所だが、元は苫田郡西加茂村という津山市郊外の山村である。津山市街地から北東に10キロほど離れた、因美線美作加茂駅が最寄りとなる。

津山市 美作加茂

津山から鳥取県方面を結ぶJR因美線の美作加茂駅。ホームから景色を見ても全くの片田舎としか言えない佇まいで、時刻表は津山方面に1日10本、鳥取方面への直通はなく、途中の智頭行きが1日7本発着しているのみ。8時56分の津山行きを逃したら次の電車が来るのは13時31分。鉄道の旅だとかなりエクストリーム感がある。

津山市 美作加茂

現在この場所は「津山市加茂町」という行政区分になっているようで、街の観光案内図を見るがわざわざそんな看板に「地球にやさしいエネルギー ー原子力ー」と書かれているのが何とも恐ろしく時代錯誤でヤバイ。この地方に原子力発電所は無かったはずだが、過去に原発誘致計画でもあったのだろうか?どうにもならない過疎地域が頼る禁断の果実…

津山市加茂町(旧苫田郡西加茂村)行重地区へ

津山市 美作加茂

美作加茂駅の南西方向に「津山事件」の舞台となった行重地区がある。徒歩なら美作加茂駅から片道1時間、4キロ以上は歩かなければならないが、車だと津山市街地から僅か30分でここまで来れる。事件を引き起こした犯人・都井睦雄が暮らしていたのはさらに奥地の「貝尾集落」という場所で、いくつも集落が枝分かれしている中のいずれかにある。

津山市 美作加茂

途中、眞福寺という寺院の入口が現れ、当方のカーナビの設定だとこの辺くらいまでしか出てこないし、グーグルマップもどの辺が貝尾集落なのかを示してくれない訳で、まあともかくネットやGPSという文明の利器にもハブられる程ド田舎だという訳でありますが…

津山市 美作加茂

とうとう「第一村人」にすらすれ違う事もなく「貝尾集落」の入口まで辿り着いてしまった。麓の集落からも1キロ近く離れており、貝尾から上にはもう集落はない。ちなみに事件の舞台はこの貝尾集落と、手前の坂元集落の二ヶ所である。

津山市 美作加茂

貝尾集落の入口にあるゴミ集積所と集会所の建物が一つの目印となる。この場所まではストリートビューの車も立ち入っていて、グーグルマップで何となく見られるが、さすがにこの先までは入っていない。

津山市 美作加茂

集会所の横の路地を入った辺りに都井睦雄宅があったようだが、その左手にずらりと墓石が並んでいるのが目につく。これが「八つ墓村」のモデルともなった一晩で集落の住民の数分の一の命が消えた、そんな暗い歴史を抱えた集落の風景だ…

津山市 美作加茂

都井を含めて31人の命が一夜にして失われた貝尾集落の墓地。しかし集落全体の共同墓地という訳ではない。この場所だけではなく数ヶ所に点在しているのだ。

津山市 美作加茂

墓石に刻まれた日付の多くは「昭和十三年五月二十一日」。言うまでもなく事件のあった日だ。この事件で一家全滅した世帯もあれば、一人だけ残され、一家の大黒柱を失った故にその後惨めで貧しい暮らしを余儀なくされた世帯もいた。

津山市 美作加茂

その当時と今とでは80年近い歳月が流れているが、中国山地の奥の過疎の村でしかないこの地域に変化が訪れるはずもなく、都井睦雄が居た時代とは恐らく何も変わらない田舎の純農村集落の姿を留めている。村人の姿も見かけたが、案の定皆高齢者ばかりだ。

津山市 美作加茂

津山事件に関しては様々な研究やネット上のレポートが見かけられるので今更詳細を事細かにこの場で書く事もしないが、都井が凶行に及んだ原因に「村八分による怨恨」があり、その怨恨の元となったのが当時死の病として恐れられた結核に罹患した事、そしてこの事で徴兵検査に失格(厳密には丙種合格)し屈辱を味わい、村人には疎まれ、それまで恋仲の相手だったが破局して他人の元に嫁いだ女性への恨みが大きく関わっていた。

津山市 美作加茂

都井は己の人生に絶望し、当時騒がれていた「阿部定事件」を引き合いに出して「阿部定は好き勝手なことをやって、日本中の話題になった。わしがどうせ肺病で死ぬなら、阿部定に負けんような、どえらいことをやって死にたいもんじゃ」と友人に豪語していたと、津山事件を描くノンフィクション本としては最も有名な「津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇」の文中に記されているというが、どこまで本当なのだか。

津山市 美作加茂

都井は犯行当日に向けて長文の遺書を書くなど周到な準備をしていた事が知られている。3キロ離れた麓の加茂町駐在所まで自転車で走り、難を逃れた村人が警察に助けを求めに走るまでの時間を事前に計算していたり、犯行前日夕方に送電線を切って村を停電状態にしていた。

深夜1時頃、都井は完全武装の上に暗がりの中で日本刀や猟銃を手に次々人家に忍び込んでは犯行に及び、最後は貝尾集落と都井の生まれ故郷である倉見集落の両方が見える「荒坂峠」付近に逃げ込み、夜明け頃にそこで最期を遂げたと見られる。都井はこの時僅か22歳であった。そして都井の墓は倉見集落に今でも存在している。

津山市 美作加茂

事件があまりに衝撃的だったのと、都井の女性関係などの絡みから、当時のこの地方では「夜這い」の風習があった事も話に尾鰭が付いて広まり、岡山の田舎では未だに夜這いが行われているなど根も葉もない噂が飛び交う元凶ともなった。岡山県全体にとっても迷惑極まりない事件として影を落としている訳で、当然ながら今の行重地区において住民の間でこの事件の話をすること自体タブーになっているそうだ。



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