今回やってきたのは岐阜県南東部、東濃地方に属する恵那市の奥地「明智町」という場所。中央道恵那IC経由で東京からは片道4時間少々、名古屋からだと1時間半掛かる、結構な山奥にある町だ。
ここはかつて尾張から信州に至る中馬街道(飯田街道とも)、そして岡崎と木曽を結ぶ南北街道が交差する宿場町として古くから栄え、大正時代には養蚕業・生糸の生産で隆盛を誇っていた街だったという。2004年の平成の大合併で恵那市の一部となる前は恵那郡明智町に属していた。
JR中央本線恵那駅から発着しているローカル線「明知鉄道」(旧国鉄明知線)に乗って終点の明智駅まで片道50分で来られるが、車だと恵那、瑞浪両市街地から車で30分といった所。かつての中馬街道沿いを走る国道363号線で愛知県瀬戸市から車で1時間もあれば来られる。
ここ明智町では大正時代に大きく発展したレトロモダンな街並みが割と忠実に残されており、その為に町を挙げて「日本大正村」と銘打って街並みを観光資源としてアピールしているのは東海地方の地元民にはよく知られた話。主に大正時代に建てられたこうした建物が一般開放されてそれぞれ展示施設になっている。これは旧郵便局を使った逓信資料館。
犬山の博物館明治村、美濃加茂の日本昭和村に肖って「日本大正村」と呼んでいるが、こっちはテーマパークでも何でもない。入場料も掛かりません。岐阜県を代表する地方銀行「十六銀行明智支店」の建物もわざわざレトロモダン風味にして看板も右から左に書いている。
かつては濃明銀行という東濃地方最古の銀行だった銀行蔵の建物も明智町の歴史資料を多数展示する「大正村資料館」として日中開放されている。建物の豪勢さは大正時代の生糸産業がどれだけ町に富をもたらしたかを推し量るのに充分の説得力がある。
明智町のレトロな中心市街地の街並みは明智駅東側の南北一キロに渡って連なっている。ちょっとした日帰りローカル線の旅には良い場所なのかも知れない。明知鉄道自体も乗り鉄マニアが全国から来るような所なので、レトロと鉄道を愛でる観光地としてはぼちぼちいい線を行っている。
大正時代の栄華もそのままに今は鄙びた山里の静かな町といった風情の明智町にはオツな佇まいの旅館もあったりして、機会があればこういう場所でしっぽり一夜を過ごしてみたかったりしませんかね。冬はめちゃくちゃ寒いですけどね。
明智町のハイライトは間違いなく「うかれ横町」だ
しかし我々が明智町で最も関心を引いたのは常盤町二丁目の「ときわ通り」と書かれた街灯看板が立つこちらの脇道に入った一帯。「うかれ横町(横丁)」という何ともそそられるネーミングの横丁がある。ときわ通りという名称よりも、こっちの方で呼んだ方がしっくり来るだろう。
うかれ横町のネーミングの通り、かつてはこの横丁は明智で指折りの盛り場となっていた場所で、この路地裏には沢山の飲食店が軒を連ねていた。この特徴ある建物も元飲食店だったようだが既に廃業してしまっている。昭和9(1934)年から続くカフェーの建物をそのまま使った元洋食屋だったそうだ。
「TEA ROOM」「喫茶とお食事」の表記がそのままのガラス扉も当時のままでしょうか、「グリルたなか」さん。デミグラスソースのかかった独特のカツ丼が名物だったという。あと10年早く知っていれば、食えたかも知れないのになあ。
そして極めつけに現れたのが、この路地を跨ぐ渡り廊下で繋がった両側のごつい木造建築物。あまつさえ渡り廊下には「中馬街道 うかれ横町」と書かれた看板が一部剥げ落ちつつも掲げられている。これは後から説明する明治40(1907)年創業の「割烹旅館笹乃家」の裏手にあたる。
気になってしょうがない「笹乃家」の渡り廊下。完全に木造ですが明治時代のものが壊れもせず路地に百数十年間ずっと佇んで居られるのだから、見た目以上に丈夫に作られているのだろう。
この渡り廊下を挟んだ向かいの建物に芸者置屋があって、出番が来ると芸者衆は一斉に渡り廊下を抜けて客室に馳せ参じる、といった具合だったらしい。「うかれ横町」の名の由来が良く分かりました。