東日本大震災によって引き起こされた巨大津波は後世に語り継いで行かれる非常に大きな出来事である。2万人規模での犠牲者が出た戦後最大級の自然災害を受けておよそ1年半が過ぎ、今なお被災三県の沿岸の街は復興への長い道のりを歩んでいる。
そんな中でニュースでも話題になった岩手県宮古市重茂半島の姉吉地区にある「大津浪記念碑」を見たいと思い現地を訪れた。
この姉吉地区というのは過去二度の大津波で集落がその都度壊滅、生き残った住民が後世に津波の恐ろしさを伝えるべく石碑を置き、今の住民がその石碑の言い伝えを守ってきたおかげで今回の大津波で一人の犠牲者も家屋の被害も出さずに済んだという場所。
肝心の姉吉地区の場所なのだが、宮古市とは聞いていたもののそこは重茂半島なる三陸の秘境とも呼ばれる一帯。本州最東端の魹ヶ崎灯台がある事で有名だが、この姉吉地区に行くには宮古市街地から片道30キロ近く、重茂半島に入ってからは平均1~1.5車線の狭い山道を延々と越して来なければならない。秘境中の秘境である。
うんざりする程長い県道41号の峠道を乗り越えた先にある姉吉地区への入り口。一応ながら岩手県北バスのバス停と待合所が置かれている。
そしてバスの時刻表を見ると一日たったの4本。そのうち2本は途中の重茂集落までしか行かない。まさに秘境の時刻表。自家用車がないとお話になりませんな。
県道を外れて姉吉地区の集落へと降りていく。昭和8(1933)年に起きた昭和三陸大津波の後に生き残った4人の住民が山林を切り開いて集落をまるごと高台に移した。現在は10軒ちょっとの家屋、11世帯34人が住んでいる。
住居を高台に移した後も姉吉地区の住民にとって生活の糧は漁業である事に変わりはない。したがって高台にあるにも関わらずどこの民家の軒先にも漁船を置くスペースとそれを運ぶ大きめのトラックが横付けされているのが特徴である。
置かれているトラックも漁船を運ぶ為のクレーンが取り付いているのが分かる。漁に出る日はトラックに漁船やら道具一式を載せて峠道を下って港まで行き来するという事になる。
その途中に姉吉地区で唯一の民宿「魹ヶ崎荘」がある。本州最東端の民宿ということでそれなりにお客さんも多いらしい。これだけ小さな集落なのでコンビニはおろか個人商店めいたものは皆無である。
集落は峠道の下り坂に沿って点々と並んでいるがそれもいよいよ途切れてくる。下の方に来ると漁船だけが置かれたスペースが目立つ。
で、どうやら現在の姉吉地区における集落の外れがこのへんになるらしい。そこにも横付けされた漁船が一隻。
そして集落を離れていくと「大津浪記念碑」が50メートルくらい下った所に…あった。
昭和三陸大津波の後に生き残った住民が後世に警告すべく建てた大津浪記念碑は今も海抜60メートルにあるこの土地に建ち続けている。縦150センチ横50センチの大きな石碑となっている。78年後に再び襲った大津波から子孫となるこの集落の住民を守ったのだ。
「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」
「明治二十九年にも 昭和八年にも津浪は此処まで来て 部落は全滅し生存者僅かに前に二人後に四人のみ 幾歳経るとも要心あれ」
大津浪記念碑を過ぎて海岸の方に降りていくとそこには惨たらしく山が津波によって削られた跡が生々しく残っていた。やはり3.11の大津波でもこの場所には容赦無い被害があったのだ。見事に記念碑を境目に被害の有無がくっきり別れているのが印象的。
それよりも先人の言い伝えを忠実に守れたのは集落の住民の実直さだけではない気がする。30人そこそこの集落だったからこそ毎日トラックに漁船を載せて細い峠道を行き来できたのだろう。これが数百人数千人規模の漁港だったら、とても面倒臭くて出来なかっただろうな。
この海岸近くには姉吉キャンプ場もあったのだが津波の被害で現在も営業を休止したままだ。無傷だった高台の集落とは違ってインフラ関係もメタクソに破壊されているのですぐに直せる訳もなかろう。
とりあえずの応急処置が施されたものの未だに傷跡が癒えぬ姉吉漁港。やはりこの状態を見て分かる通り港の復旧はまだまだ目処も立たず、住民が元通り漁業を続けられるはずもなく再開を断念したり、もしくは隣の集落の漁港に移るなどしている。姉吉地区の復興もまだまだ先は遠いようだ。
ちなみに本州最東端の魹ヶ埼灯台へはこの姉吉漁港に車を止めてから山道を4キロ近く登って行かなければ辿りつけない。結構ヘビーだなあ。
河出書房新社
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