鹿児島県最南端・与論島上陸記
百合ヶ浜に昭和のリゾート観光地の亡霊を見た(下)
表の廃墟群にばかり気を取られていて肝心の百合ヶ浜とやらを見て居なかったのでそろそろ見に行く事にする。このオブジェを超えた向こうが海になっている。さて行きますかね。
すると砂浜に至るまでの間にいくつもテントが立てられていて、我々観光客を待ち受けていたであろう売り子の婆さん達が声をかけてきた。「お茶サービスするから寄ってって」と強引な客引きが始まる。同時にそのへんに居た親父が近寄ってきて百合ヶ浜行きのグラスボートを案内しようとする。やばい。これはマジモンで昭和の観光地だ…
売り子の婆さんやボートの爺さんの客引きをかわして百合ヶ浜まで行こうとする。しかし百合ヶ浜という場所は今立っているこの砂浜を指している訳ではない。沖合にある、干潮時だけ現れる砂浜の事を指すのだ。ここへは徒歩で行く訳にはいかず、グラスボートのオッサンに1人2000円払って往復してもらうしかない。つーか別に泳ぎに来た訳でもないし何もない沖合の砂浜に行ってもやる事もないし、まあいいやと何もせずに帰ろうとした。
すると途中のテントから出てきた売り子の婆さん達が恨めしそうに「何で(百合ヶ浜に)行かないの?もったいない」「寄ってって」「お茶サービスするから」と次々猛攻撃を仕掛けてくるのである。バイオハザードのゾンビかよ。昭和の亡霊のような売り子の商魂にたじろぎすぐさま立ち去ってしまった。何で行かないの?って言われても、ねえ。
この人達は恐らく与論島ブームの時代から同じやり方で何十年間ずっと商売を続けてきた人達なのだろうなと思う。売ってるものと言えば他愛も無い貝細工とかが中心なんですけどね。
観光ピーク期の百合ヶ浜の写真はサザンクロスセンターや赤崎海岸の「味咲」の店内などに置いてあった与論島写真集で見る事が出来た。かつては百合ヶ浜もパラソルが林立しまくり観光客が殺到していたそうだ。この頃には島外から金儲け目当てのやくざ者も出入りしてカップヌードルを1個500円で売り捌いたりあこぎにボロ儲けしていたらしい。百合ヶ浜って一旦渡ってしまうと食糧も水も確保できなくなるからな。
まあともかく、今は人があまりに居なさすぎてこっちが申し訳無くなるくらい気の毒な気持ちにさせられる。売り子の婆さんの相手になってやればよかったかもと少し後悔している。
島じゅうどこに行っても廃墟だらけで気の毒にすら思えてきて気分も萎えてきたので、赤崎海岸近くにある「味咲」という店でかき氷でも食う事にした。相変わらず観光客の姿はない。夏休み期間中ならもう少し様子が違っていたかも知れないが…
海の家的佇まいの開け放たれた店内の至る所に観光客が残していったサインがある。この日は親父さんが一人で店をやっていた。客は我々だけ。ラジオの音声が流れてくるが、聴いている限りでは沖縄のラジオ局のものだった。そりゃ地理的には全然沖縄の方が近いもん。
出されたかき氷を食らいながら店の親父さんに島の話を色々聞かせてもらった。観光ブームに湧いていた頃の与論島の写真集なども見せてもらったりして。やっぱり与論の人は大きな買い物がある時とか免許取りに行く時とか、地理的に近い沖縄に行っちゃうらしい。沖縄県に編入された方が島民の暮らしは便利になるだろうが、歴史的にも昔から今までずっと鹿児島県のまま、この先もずっとそうなんでしょうな。沖縄にこれほど近いのに、赤瓦に漆喰塗りの屋根の民家など全く見かけないし、シーサーとか亀甲墓とかも全然ないし、泡盛じゃなくて焼酎だし、自販機にさんぴん茶売ってないし。
島の東海岸に近い某所にある作家森瑤子の墓。ここだけ赤瓦に漆喰塗りの屋根にシーサーが乗ってる沖縄風味。与論島がすこぶる気に入ってしまい遂には別荘を建てて東京と与論を行ったり来たりしていたらしい。52歳で死没すると、墓は別荘の脇にあるこの土地に建てられた。やっぱりこの島には沖縄でも本土でもない全く別の時間が流れているような気がしてならない。
島内あらかた一周したので、最後は島の高台にそびえるサザンクロスセンターとやらを訪れた。与論島の郷土博物館的施設にもなっているが、タワーの上から島内が一望出来る。
周囲23キロの島の高台から見る風景はどの方向からでも海と地平線が見渡せる。この高台はかつて与論城跡があった場所で、周囲には琉球北山王時代に築かれたという石垣などが残っている。
館内には映画「めがね」のロケで実際に使われていた三輪自転車の現物が置かれていた。寂れたリゾートアイランド与論島ならではの寂寥感をひしひしと体感できる映画でしたね。