下関の遊郭跡「下関新地」の路地裏がレトロ過ぎて悶絶する件 

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旧遊郭地の真ん中辺りの四つ角にかなり渋い妓楼跡が残っていた。正面が空き地で駐車場になっているので少し離れて見られる。右隣は酒屋。

建物真正面から全体図を見る。あれこれアレンジしまくってカオスな展開。遊郭→戦後の赤線→廃墟といった一連の流れを建物一つで表現している感じだ。

いやらしくピンク色に塗られたモルタル壁の部分はスナックか何かだったのだろう。左右二つに扉があるが右側の扉は青く塗られている。

建物の一階角の部分が家人の居住スペースであろうか、古びた郵便ポストが備え付けられているが現在進行形で使われている形跡がない。既に廃屋のようだ。あまつさえ扉が2つ付いていて赤線カフエー建築丸出しなテンションである。

続いて建物右の側面を鑑賞。特徴的な格子窓は一階と二階で形が全然違っている。

さらにそこから右側に視線を移していくと…今度は青一色に塗りつぶされた板張りの増築部分が現れましたよ。なんということでしょう…意図は分かりかねるがこの色をわざわざ選んだ理由が気になる。

その先の部分も増築に増築を重ねたという感じで何が何やらさっぱり分かりません。ここ下関新地における九龍城砦みたいなもんでしょうか。こんなに増築しまくらなければならん程に遊女を抱えていたのか…

もう一度この建物を遠巻きに眺めてみよう。やはりただならぬ存在感。目の前の曲線を描いた道をよく見ると暗渠かと思うようなコンクリートの板を並べて川に蓋をした形跡が見られる。やっぱりこの下って川ですかね。

この並びの一帯もことごとく元赤線ですと自己主張しまくりの建物が残っている。半世紀以上昔のこうした建物が今も大事に使われている事に感心せずにはいられない。

表面だけサイディング材で隠していても二階の上の部分を見たら一発でそれと分かりますねこれ。

軒並み民家になっているがこのへんもかつては赤線地帯として使われていたであろう。あまりに分かりやすく残っているのでニヤニヤしながら見てるんですが。

もう一度来た道を振り返ってみよう。この通り見事なまでに遊郭跡である。

国道側に近い所は真っ直ぐな街路が走っているがちょっと奥に入ると突然狭苦しい路地へと変わる。背後に高台があるからだ。

その路地に誘われるかの如く足を踏み入れたらそこには戦後から全く変わっていないかのような光景が目に飛び込んでくる。この木造家屋、いつからあるんだろう。

相当昔から木造家屋の壁に貼り付けられたままのブリキ看板の数々。昔から新地町と呼んでいたみたいだな。それにしてもこの地名がよくぞ今の時代に残っていたものだ。普通なら地名を変えて隠されたりするのに。

街並みはもはや戦前の下町といったところ。民家の軒先に残るこうした細かなタイル張りの意匠も見逃せないアクセントである。

新地の裏道的な細い路地は高台の山肌に沿って弓なりにカーブを描いている。そこに二階建ての木造長屋が連なる独特の街並み。そこには古い食堂や散髪屋などが細々と商売を続けている。

そして極めつけにはそんな路地裏に玄関を構える銭湯「千歳湯」である。今でもこの界隈の住民が普段使いしている銭湯のようだ。かなり古い建物だが戦前どころか100年以上の歴史があるらしい。文化遺産レベルだなこりゃ。

銭湯の浴室から漏れる明かりが路地を照らしている。真向かいには木造長屋と「中山食堂」と小さな看板を掲げた食堂が一軒。素晴らしすぎる路地裏風景。

千歳湯のすぐ裏側には高台がそびえ石畳の階段が奥へと続いている。この先にも随分な細民長屋と呼べる住宅地が広がっていて殊の外住民が多い事が伺える。ただならぬ街だな、この下関新地という場所は。

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新日本DEEP案内およびDEEP案内シリーズ管理人兼編集長。2007年「大阪DEEP案内」開設、2008年「東京DEEP案内」開設、2009年「日本DEEP案内」開設、2010年「世界DEEP案内」開設、2013年「新日本DEEP案内」開設。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。首都圏を中心に飛ぶような売り上げを記録し増刷決定。
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