世界遺産候補の産業遺跡、長崎の超有名廃墟無人島「軍艦島」に上陸してきた 

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長崎市 端島

見学通路に沿って島の最南端まで回るとそこが3つ目の見学広場になっている。仕上工場だった建物があるくらいで、他にあったと思われる下請住宅や何やらは現存しない。崩壊していたとしても瓦礫があると思うのだが、見学通路に近いという理由で片付けられたんでしょうかね。

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さらにプールの跡まで。ここは高島町立の海水プールで、小中学校にもプールがあったことからこっちは「南部プール」と呼ばれていたそうだ。大正時代にはこの辺は手配師(納屋)が牛耳っていた一帯で、所謂遊郭なんぞもあったエリアだという。遊郭はその後「日給社宅」に移転するなどしてひっそり続けられていたそうだ。

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見学客が直接見られるのは残念ながらここまで。しかし島の居住空間がこの先にずっと続いているのだ。左の31号棟は昭和32(1957)年築だが、特に右手にある7階建ての30号棟は大正5(1916)年築で、日本最古の鉄筋コンクリート製アパートになるという超貴重な建造物。だって、あの同潤会アパート以上の古さですよ。

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築90年近い日本最古の鉄コンアパートも長年の風雨にめげて一部崩落を始めている。一方の同潤会は最後まで残っていた上野下アパートが解体されて無くなったけど、こっちはまだなんとか残ってます。ここは下請け労働者が暮らしていた飯場なので設備がしょぼく、ボットン便所だし衛生状態もかなり悪かったそうだ。ここからでは見えないが建物中央には吹き抜けがあり上から見ると口の字型になっている。

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しかし、この中に入って何とか見れないもんですかねえ…ネット上には許可を受けて入ったのかそれとも不法侵入したものなのか知らんが腐る程画像が転がったりしているので探せばいくらでも見れるのだが…と思ったら最近Googleがストリートビューで軍艦島の中を見られるようにしちゃいましたよ。時代は変わりましたな。

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予定通り軍艦島上陸後に3箇所の見学広場を回って、再び乗ってきた船に乗り込んで島を離れる。束の間でしたね。で、その後は島をぐるりと半周して、元通り長崎港ターミナルに戻る事になる。残りは船の上からお楽しみ下さい、という事だ。

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しかし見どころ豊富そうな住宅棟がひしめく一帯は立入禁止区域である島の西側に密集している。この多くが鉱員住宅となっていて庶民の娯楽らしいパチンコ屋や雀荘やらあれこれ如何わしそうな店も住宅内要所要所に配置されていたようだ。これだけ人口規模もあって気の荒い炭坑夫が密集しているようなヤバげな島にその手の店が全くない訳がなかろう。おいそれと気軽に島も出られない暮らしは如何なものだったか。

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8階建ての51号棟も鉱員住宅で昭和36(1951)年築、その奥に連なる9階建ては「日給社宅」と呼ばれた鉱員住宅で、これも大正7(1918)年築という超年代物鉄コンアパートになる。16号棟から20号棟までの5棟が渡り廊下で結ばれていて、それぞれ屋上に遊園地や農園、弓道場などが置かれていた。納屋制度があった戦前期は徴用された朝鮮人がタコ部屋状態で住んでいたり遊郭もあったりという何とも魑魅魍魎とした空間だったそうだ。

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島の最も高台にあるのが先ほども目にした幹部用住宅の3号棟、その下が三菱の社員が生活する中央社宅(14号棟)、一番下が鉱員住宅という配置が一目でくっきり分かる構図。何ともヒエラルキーが露骨過ぎてニヤけてしまう。最も下にある住宅棟は高潮対策を兼ねていて、大事な炭鉱施設を潮害から守る防波堤となっている。

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視線を右下にずらすと31号棟と39号棟の間に豪快にぶっ潰れた建物の痕跡が見える。ここには50号棟、映画館「昭和館」があった。その上には鉱員住宅の21号棟、公務員住宅だった22号棟がある。22号棟には高島町役場端島支所があった。その隣には泉福寺(23号棟)という寺があったが木造だったため全壊。さらにその上には職員社宅の12号棟、教職員住宅の13号棟。

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昭和館はその名の通り昭和2(1927)年築。映画は昭和の時代における娯楽の中心だったとはいえ、テレビが普及するのが早かった端島では映画館が廃れるのも早かったらしい。閉山直前には卓球場や資材倉庫になっていたとか。煉瓦造2階建てだったが、やはり昭和館の名の通り、昭和が終わった直後の平成3(1991)年に台風で倒壊。

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島の北寄りに移っていくと縦並びに59、60、61、それから66、67号棟、その向こうには児童公園を挟んで端島で最大のアパートである報国寮(65号棟)がそびえる。これらは全て鉱員住宅。高潮時には防潮堤を飛び越えて海水が団地内に飛び込んでくるので通称「潮降り町」という壮絶な名前がついている。これだけ高層建築物が密集した空間だがエレベーターは一基も設置されていなかった。その代わり各建物間に過剰な程に渡り廊下を配して利便性を図っている。

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そこから島の北側を回ると、防潮堤がカーブを描く角の所に僅かに見える小さな白い外壁の建物が68号棟。三菱高島鉱業所端島病院の隔離病棟である。当時東京都の9倍、世界一の人口密度での壮絶な暮らしがあった端島は衛生環境の悪さから赤痢罹患者が続出していた。そういった伝染病患者を隔離していた病棟になる。

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右から隔離病棟(68号棟)、端島病院(69号棟)、ちどり荘(教職員住宅)、その奥に報国寮(65号棟)、一番左が端島小中学校(70号棟)。 軍艦島クルーズの船はこのアングルを最後に島を離れていく。

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480×160メートルというこの小さな島に生活の全てが詰まっていた事がよく分かった。離島という言葉よりも「海上要塞都市」とか言葉付けといた方がお似合いだな。この先、世界の産業構造がいかに変わろうとも、日本近海に眠るメタンハイドレートを本格利用する時代が来ようとも、このようなめちゃくちゃな島が出来る可能性はゼロなんだろうな。

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生活に関わるものは何もかも揃った炭鉱の島で、唯一無かったのが死者を葬る為の火葬場だった。それは端島と高島の間に浮かぶ中ノ島に設置されていたそうで、ただでさえ窮屈で生活環境が限界レベルのあの狭い島で火葬場を作る事だけはさすがにしなかったそうだ。この中ノ島も無人島で、島の岸辺に赤煉瓦の構造物が崩れ落ちているのが見える。

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帰りは船内で軍艦島映像を鑑賞するなどしながらのんびり長崎港ターミナルに戻る事になる。何と言いますか、あっという間でしたね。軍艦島、行った事のない方も死ぬまでに一度は行って見る事をお勧めしたい。月並みな締め方だけど。




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新日本DEEP案内およびDEEP案内シリーズ管理人兼編集長。2007年「大阪DEEP案内」開設、2008年「東京DEEP案内」開設、2009年「日本DEEP案内」開設、2010年「世界DEEP案内」開設、2013年「新日本DEEP案内」開設。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。首都圏を中心に飛ぶような売り上げを記録し増刷決定。
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