作戦室から奥の通路を抜けるとその次が幕僚室。軍部のお偉方がいる部屋には同じように漆喰で塗り固められたカマボコ状の空間となっている訳だが、それでも非常に狭い。
幕僚室の壁には最後に幕僚が手榴弾で自決を図った時の弾痕が生々しく残されている。
幕僚室を後にするとさらに奥へと通路が伸びていた。幕僚室の先に暗号室、その先には医療室、発電室などと部屋というよりは通路を広げただけのくぼみが続いている。
暗号室は他の作戦室、幕僚室のような広いめの空間となってはいるが、お偉方が居る部屋ではないので漆喰で外壁が固められている事もない。この部屋から電報が発信されていた。
そしてこれが医療室だとは到底思えない訳だが生き残りの元兵士らの証言によってここが医療室であったという事が明らかになっている。さぞかし傷病兵の治療も劣悪極まりなかった事だろう。
その先に発電室と呼ばれる部屋が3ヶ所並んでいる。ここに発電機が並べられていた事になる。
すっかり苔むした地下壕の壁には当時の配電用碍子がそのまま突き刺さった箇所もある。
その先にある下士官兵員室。兵員の休憩に使われていたというが何せこの狭い地下壕に4000人もの人間が息を潜めていたのである。立ったまま寝るしかない状態で、しかもトイレすらなく糞便はそこらじゅうに垂れ流さざるを得ない。さぞかし地獄絵図だったはずだ。
そして最後に見たのが司令官室。この部屋だけは中央に椅子とテーブルが置かれていた。部屋の奥の壁には大田実司令官が直筆した和歌が墨で刻まれていた。(劣化を防ぐためにプラスチック板が被せられている)
「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」
天皇の為に死ねるのならば人として生きた価値があると。死の間際まで大和魂を貫いていたという事か。戦後のゆるい平和ボケの中を生きる我々の世代にはとても考えが及ばない世界である事には違いない。
最後まで重い空気に支配されていた空間を抜ける。メイン通路をまっすぐ進むと壕の出口だ。この地下壕は終戦後放置されていたが1953年から生き残りの元海軍部隊隊員らによって何度も遺骨の収集が行われ、大田司令官を始めこれまでに約2400体の遺骨が収集された。
戦時中には地下壕を出た者は二度と生きては戻れないと言われていた場所も、今ではゆるゆるなおみやげコーナーと化していた。容赦なく照りつける沖縄の空と太陽が眩しい。
緊張感を強いられる地下壕巡りの後は「おっぱのソフトクリーム」というお脱力デザートが待っていました…改めて平和の尊さを感じずにはいられないのであった。
最後に駐車場に戻る途中、高台の斜面には巨大な亀甲墓が置かれていた。沖縄では別に珍しくないタイプの墓である。しかしかなりデカい墓だ。なお海軍の犠牲者とは無関係のようで、地元民の所有する墓のようだ。