癒えぬ沖縄戦の傷痕…米軍基地と戦跡の島「伊江島」の団結道場を見てきた

沖縄離島

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国頭郡 伊江村

公益質屋跡の近くにある「芳魂之塔」は戦時中の米軍による伊江島上陸作戦で死亡した島民1500人と日本軍の将兵2000人、合計約3500人の霊が合祀されている。死亡した島民の多くは日本軍と共に武器を持って戦闘に加わっていた民間兵だったという話もあるそうだ。

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芳魂之塔の前には犠牲者名簿の石碑が立ち並び、摩文仁の平和祈念公園を彷彿とさせる。伊江島での戦闘は「沖縄戦の縮図」と形容される事も多いようで、修学旅行生も時々この島に訪れて戦争遺構を見物しにやって来るそうだ。

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さらに伊江島の北東部のゴルフ場「伊江島カントリークラブ」に隣接する土地には「アハシャガマ」と呼ばれる防空壕として使われた洞窟があり、米軍上陸後の地上戦の末、避難した島民が約150名、防衛隊員が持ち込んだ爆雷によって集団自決が図られたという壮絶な歴史を留めている。

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ガマの中を覗きこむと、生々しく残された当時の避難民が持ち込んだと見られる食器の欠片などが残されているのだ。集団自決の末、生き残ったのはわずか20人程度で、終戦後26年後の昭和46(1971)年になってようやく遺骨が収集されるに至った。

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今度は島の中心集落から西側の、西小学校前の広場にやってくるとその中心にそびえているのがアメリカ人従軍ジャーナリスト、アーニー・パイル氏の記念碑。米軍の沖縄上陸作戦に同行する中、伊江島に上陸、取材中の4月18日、日本軍の弾に当たり死没。前年の1944年にピューリッツァー賞を受賞する世界的にも有名なジャーナリストだった。

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アーニー・パイル記念碑は戦後に米軍が設置したもので、現在も彼が死んだ時期と同じ毎年4月18日に近い日曜日に伊江島では米軍関係者や島民も交えて慰霊祭が行われる。

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他にも伊江島には「反戦平和資料館 ヌチドゥタカラの家」という施設もあって、ここが島の戦争資料関係ではかなり肝の部分にあたるのでおいおい別の機会に紹介しようと思うが、とりあえず島のあちこちに英語で書かれた案内板があるのが特徴的だ。

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「イエシマレンジ」と呼ばれる事もある、伊江島補助飛行場。アメリカ海兵隊の飛行場兼演習場となっていて、現在も様々な訓練が実施されているのだ。戦後すぐから日本軍が建設した飛行場を接収し、訓練場用地の確保のために農地を強制的に接収していく様子は「銃剣とブルドーザー」とも形容され、後々の土地返還運動へ繋がる事になる。

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伊江島にある米海軍訓練施設は普天間や嘉手納のような市街地ではない為に、基地の全面返還の見通しは全く立っていない。島ではサトウキビや島らっきょう、伊江牛などの農業も盛んだが、こうした米軍施設でも米軍関係者に混じって島民が働いているという。そして米軍基地が押し付けられたままの体裁になっている伊江村には毎年「特定防衛施設周辺整備調整交付金」が支給されており、村内のインフラ整備に活用されている。

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特に島の西側を走っているとフェンスに遮られた米軍施設の敷地が現れてやたらと物々しいので、うかつに近付く事もままならない。伊江島補助飛行場の広大な敷地の一部は黙認耕作地があったり周囲には一般島民が暮らしている私有地と被っていて、訓練時のパラシュート降下で私有地に誤って着地するトラブルも後を絶たず、色々と問題を残している。

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そんでもって、こんなプロ市民臭満載の「オスプレイ配備NO!!」の抗議看板が田園風景の中にぽつんと建てられているあたりが基地の島らしい苦悩を象徴する光景であるが、よく見たら「ヌチドゥタカラの家・土地を守る会」の連名だった。

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