旧墨俣町が単独町政としてやっていかずに大垣市の一部になったのも合理的な理由だったのかも知れない。以前の墨俣町は「日本一面積の小さい市町村」の一位にランクインしていた程のミニ自治体だったのだ。それも2006年の平成の大合併の最中だったので、墨俣町が大垣市に編入されるまでのひと月足らずの間だけだったそうだが…
戦後は鉄道網からも道路網からも外れた寂れた宿場町となった墨俣、開発の手もそれほど加えられない分、こうした建物がきっちり残されているのだろう。しかし軒並み空き家と化して放置されている家屋も少なくはない。
かつては芸者さんが三味線の音に合わせて踊っていたりした場所だったのかと思うとこの廃れっぷりは気の毒にすら思える。ここは長期間放棄された廃屋であるに違いない。
これだけの立派な色街の痕跡を残しながら観光資源として活かせずに、自治体ごと消えて無くなって「墨俣」という地名もろとも闇に封じ込められるのは、この土地に住む町民としてはどんな気持ちなのだろう。史実とは違ったハコモノ天守閣が町の唯一の目玉というのもあまり感心できない話ではある。
こちらの民家も妓楼的要素がふんだんに盛り込まれているがやはり荒れ果てている。二階部分の色褪せたベンガラ色の土壁が半世紀以上の世代を超えてまでもなおその妖気を放っていた。
二階の窓に嵌めこまれた擦りガラスには丸い模様がくっきり残っていた。透明な丸い模様の部分から遊女がこっそり顔を覗かせていたらと思うと、背筋が寒くなりそうですね。
そしてもう一軒、これもどう見ても空き家状態のままなのだが、廃業した旅館の建物が残されていた。屋根瓦が一部崩れ掛かっていて、こちらもいつ自然倒壊してもおかしくないボロ具合である。
建物の路地に面した部分にはこれまたキョーレツにレトロな旅館の看板が掲げられている。「見晴旅館 内湯完備 電話五六番」の文字がはっきり読める。
ここもいつ頃まで旅館として営業していたのか定かではないが転業旅館の類だろう。玄関の引き戸は下半分が苔むして緑色に変色している。足元には白と空色の市松模様の豆タイルが敷き詰められている。
当方が墨俣町を訪れたのは2013年2月。しかし最近になってタレコミを頂いていて、もうかなりの建物が解体されつつあるとの事。全国的に言える事だが、特に戦前建築の妓楼や料亭の建物はこの10年間で相当解体されまくっている。木造家屋の老朽化のタイムリミットが迫っている。
錆びついたトタン壁が多用されている旧色街の路地裏風景。東海地方にはまだまだ電車で行けない地域に濃ゆい場所が残っていて未開拓地域が多い。墨俣のような見捨てられた旧宿場町的な場所を掘り下げれば、まだ結構残っている景色なのかもな。
…というわけで小さいながらもピリリと辛い色街の歴史をどっぷり蓄えた岐阜県大垣市墨俣町でした。車があれば割と行きやすい場所なので、旅の途中にちょっくら立ち寄ってみては如何だろうか。