世界遺産候補の産業遺跡、長崎の超有名廃墟無人島「軍艦島」に上陸してきた 

長崎県

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長崎市 端島

…という訳で念願の軍艦島上陸を難なく果たせた訳でありますが…ネット上に出回っている昔の軍艦島写真と比べると崩壊具合がかなり進んでいる印象が強い気がした。まあ廃墟とはそういう定めを背負っているものだし。

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ドルフィン桟橋がある島の東側には貯炭場設備があった。炭鉱からベルトコンベアーで運ばれた石炭が船に積まれていく手前の所。現役時代には石炭の山が出来ていたようだが、今はその土地がガラーンとした空き地になっている。

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コンクリートの橋脚だけが綺麗に並んで残っているが、その上にベルトコンベアーが続いていた事になる。今見ると古代ローマ遺跡か何かのノリだ。

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端島小中学校体育館(71号棟)と報国寮(65号棟)に挟まれた内側にも屋根の骨組みがいくつか残っているが、見学通路からは何が建っているのか直接見る事ができない。後で調べたら発電室や圧気機室といった機械設備が一通り置かれていた区画のようだ。

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アングルを変えて海上からこの付近を見るとこんな感じである。防潮堤が邪魔で下半分が隠れてしまっているが、赤煉瓦の壁が見えている。それにしても背後の報国寮(65号棟)の巨大さたるや異常。

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周囲を海に囲まれた厳しい自然環境の中では塩害や台風などの影響をモロに受ける。木造建築は全て崩壊は免れない。鉄筋で出来た屋根も大部分崩落して、結局コンクリート造の部分だけが一番綺麗に残っているという結果に。沖縄あたりの人がコンクリートで家を建てる理由がよく分かりました。はい。

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端島はかなり小さな島のはずだが最高地点で海抜47.7メートルもある。間近に見てもやはり軍艦島の名前はお似合いだ。てっぺんの所にあるでかいコンクリート建造物は、島全体に給水を行う為の貴重な貯水槽だ。

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これだけで最大5000人分の生活水を供給していた訳で、水は当初は雨水や製塩工場からの蒸留水で間に合わせていたが人口が増えて給水船で運ぶようになり、最終的には対岸の長崎半島から海底に水道管が通され使われるようになった。

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急斜面上の高台にそびえているのが3号棟。4階建ての職員社宅で幹部クラスのお偉い立場の方々が住まれていた。そのため全ての部屋に内風呂があった。昭和34(1959)年築で、日本中に公団住宅が建設される走りとなった時代のもの。

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渋い赤煉瓦造の総合事務所棟は見学通路から程近くよく見える。ここも崩壊が激しく古代遺跡並みの佇まいだが、この事務所棟内に坑夫用の共同浴場があり仕事帰りの人々がここでひとっ風呂浴びて自宅に帰っていった。しかし水は海水で、石炭塗れの身体が入るものだから真っ黒だったそうで。上がり湯しか真水は使えなかった。

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事務所棟に近い所から第二竪坑へ続いていた坑口桟橋の階段が残っている。坑夫達は毎日この階段を登り降りして地底深くの仕事場とを行き来していた訳だ。この小さな島からは想像がつかない程に広大な地下世界が存在している。最深海抜マイナス940メートル、最奥部は入口から3キロという坑道が網の目の如く地下深くに続いているのだ。

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見学通路から海側に見える石積み。崩壊が激しいものの、これは一目見ても分かる先代の防潮堤である。明治時代に建造されたもので、天川漆喰で固めた砂岩が使われている。技術の進歩とともに防潮堤もバージョンがそれぞれ違う訳で、最後のコンクリート堤の内側にこの古い防潮堤がある。軍艦島は6回の拡張で島の面積が3倍近くに広がっていたのだ。

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殆ど瓦礫の山と化した建物群の奥の高台から、白い灯台が見える。炭鉱の島としての歴史を終えた軍艦島に建てられた「肥前端島灯台」。昔は人家の明かりがあったので灯台を置く必要もなかったのだろうが、無人の島になった直後の昭和50(1975)年に建てられたそうだ。ちなみに現在のものは2代目。

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この建物は総合事務所棟の一部で会議室跡らしい。建物脇から伸びる石階段の行く先が気になる。狭い島内はキャパシティを上げる為に街が縦向きに、立体的に伸びている。内部は迷宮そのものになっているだろうが、軍艦島クルーズの客は一切柵の外には立ち入れない。

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島内は何箇所も立入禁止の看板が置かれていて見学客を威嚇しまくっている。実は軍艦島は世界遺産への登録を目指している動きもある。そうなれば上陸しての見学とかかなり厳しくならないんでしょうかね。そもそもこの見学通路を作った事すら一部では反対の声が挙がっていて、これ以上手をつけるのもアレだし。

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