癒えぬ沖縄戦の傷痕…米軍基地と戦跡の島「伊江島」の団結道場を見てきた

沖縄離島

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国頭郡 伊江村

レポートの前半で長々と伊江島を取り巻く戦跡や米軍施設などが残る現状を淡々と紹介したが、この土地で最も因縁深い代物であろうと思われるこちらの建物を目にする前に事前知識として蓄えておきたいものだと思えましたので…で、この一見文字だらけで電波を発している仰々しい建物こそが、戦後の伊江島において島民が米軍による「銃剣とブルドーザー」の強制接収の末に怒り、島の西側にある真謝地区、伊江島補助飛行場に近い場所に建てた通称「団結道場」である。

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この団結道場は昭和36(1961)年に成立した「伊江島土地を守る会」によって建てられたもので、戦後の米軍による「土地収用令」に基づく沖縄全域での強制的な土地接収の末、一時期は島の6割が米軍施設に占領される事になった伊江島民が自らの農地や家屋が奪われた挙句、また離島のために周囲の支援を取り付けられなかった事もあり、昭和30(1955)年に一斉に沖縄本島を那覇から辺戸岬まで縦断する「乞食行進」を行い窮状を訴えた。

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「乞食行進」を主導し、この団結道場を建てた伊江島土地を守る会の会長を務め、「反戦平和資料館ヌチドゥタカラの家」を開設したのが故・阿波根昌鴻氏。同氏は2002年に死没しているが、沖縄返還以前の反戦運動家としてその名を轟かせた。伊江島にある「ヌチドゥタカラの家」は現在も関係者によって運営が続けられている。

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…しかしそれにしても建物から放たれるこの情念というか恨みというか、ただならぬオーラが漂っている訳ですが「人をのろわば穴二つ」…唐突にその言葉を出されるのも背筋が寒くなりますね。

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1955年5月の日付が記された「米軍に告ぐ」の壁一面の警告文も、既にこの日付から半世紀以上は優に過ぎている事になる。戦後の沖縄でアメリカはどのような行動を取ってきたのか、ベトナム戦争、湾岸戦争、対テロ戦争…色々ありましたけど、ここの方々は立場的には「左」に傾かざるを得ない感じもしますよね。

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歴史上の人物で誰が偉人で誰が悪い人か決めるのは、後世の社会に生きる人々だが、このへんはさすがに個人プレイ炸裂してますねとツッコミを入れたくなる。あ、大作センセイが入ってませんよ?宗教上の理由でカットされてしまったんでしょうか。

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まあ、あんまりこの手のネタで具体例を挙げると終わりのない不毛な論議の応酬となるのは避けられませんので、個人の胸の内にしまっておきましょう。はいはい、すみませんでしたね。

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結局団結道場の前で数十分粘って建物を見物していたが、誰かやってくる訳でもなく、普段から無人なので、建物外観だけじっくり見て離れる事にした。この後に「ヌチドゥタカラの家」にも寄ったのだが、その事は長くなるので後で書く事にする。

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本土に住む人間では経験し得なかった「地上戦」を肌身で経験し、その先の沖縄返還前までの「占領」を経験した世代の苦労は計り知れないのは確かだが、そのへんが本土との「温度差」に結びついているのかも知れない。自民党圧勝であった先日の衆院選でも、沖縄だけ全然結果が違ったりするのもそうだけど。

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伊江島の島内を走る伊江島観光バスの停留所に「団結道場前」というのがあったりするのも、さすが場所柄と言うか、ストレート過ぎるネーミングのバス停である。基本的にバスは2時間に1本しか来ないので、やはり特に日帰り訪問の場合はレンタカーやレンタルバイクが無ければ厳しいと思われる。時間があればレンタサイクルでも構わない。結構こう見えて面積の広い島なので、来られる方は要注意。


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