癒えぬ沖縄戦の傷痕…米軍基地と戦跡の島「伊江島」の団結道場を見てきた

沖縄離島

沖縄本島北部の本部町沖合、ちょうど「沖縄美ら海水族館」がある海洋博公園付近からも見える、中央に小高い岩山がツーンとそびえる独特の形状をした離島…そこがこれから向かう「伊江島」である。本部港から1日4往復、片道30分の村営フェリーが出航している事もあって、日帰りで寄れる離島の一つでもある。

国頭郡 伊江村

本部半島の北西に浮かぶ伊江島は人口4500人、南北3キロ、東西に8.5キロの面積を持つ。戦時中に日本軍の飛行場が建設されたのを皮切りに、戦後に米軍に占拠され米軍統治が始まった頃から沖縄返還後の現在に至るまで島の3分の1が米海軍演習場「イエシマレンジ」(伊江島補助飛行場)として使われており、沖縄の離島の中でも特に軍事的要素の強い島になっている。

国頭郡 伊江村

本部港を出た村営フェリーは30分程で伊江島の最大集落、川平地区に近い伊江港に接岸する。港からもよく見える特徴のある岩山は城山(ぐすくやま) という標高172メートルの山で、伊江島の外の住民からは「伊江島タッチュー」の愛称で呼ばれる事もある。タッチューというのは沖縄の言葉で「尖った・突き出たもの」を意味する。そのまんまな意味だな…

国頭郡 伊江村

そう言えば、我々が伊江島上陸時に乗ってきたこちらの真新しい「フェリーいえしま」号、でかでかと「IE」と書かれたロゴが書かれていて、インターネットエクスプローラーを彷彿とさせるノリだが、ちょっとこのフェリーにも伊江島が抱える特殊事情が垣間見えている。

国頭郡 伊江村

伊江島にある米軍基地の敷地の大半は現在も民間の地主の所有となっており、日本政府が地主に毎年借地料を支払っている他にも「旧軍飛行場用地問題」という戦後処理のツケで、このフェリーいえしまも建造費15億8000万円のうち約半分の7億5000万円が「特定地域特別振興事業補助金」として国から捻出されている。綺麗な船内にはエレベーターや身障者用トイレまで完備。豪華の一言。

国頭郡 伊江村

そういう特殊事情のある島という事で、フェリーの接岸時には多くのアメリカ海兵隊やその家族連れ、さらには米軍関係車両なんかの姿も見る事ができる。ここは基地の島・沖縄の中にある「小さな基地の島」。

国頭郡 伊江村

ひとまず港に近いレンタカー屋で軽自動車を半日レンタルした上で、島内各所にある戦跡を見て回る計画を立てた。アホと煙と観光客は高い所に登るのが性質ですから、とりあえず城山の上から島を一望する事に。麓からゆっくりでも15分くらい登れば頂上に着きますかね。

国頭郡 伊江村

伊江島では城山以外に山はなく、頂上からは島の様子を360度まるまる眺める事が出来る。このような形状の山は「オフスクレープ現象」と呼ばれ、この実例を見られるのは世界的にも城山しかない程珍しいそうだ。狭い頂上で居合わせた台湾人の観光客のおばちゃんと場所を分け合う羽目になった。やっぱり珍しいんですかねこの山って。

国頭郡 伊江村

足元には島の集落もよく見渡せるのだが、この島の西側3分の1が米軍基地となっている様子は遠目にもなかなか見分けがつきにくい。島民による基地返還運動の結果、これまで何度か部分的な基地返還があり、これでも島の面積に占める基地の割合は下がっているという。束の間の眺望を楽しんでとっとと下山する。

国頭郡 伊江村

もっとも島でずっと暮らしている島民の方々は自家用車の必要性も感じられず原付でリヤカーを牽引して二人乗りをする老夫婦というリアルで東南アジアの農村のような事をやっている原始的光景が見られるので、そういう意味で沖縄の離島はのんびりしていて素晴らしい。

国頭郡 伊江村

日本軍が伊江島に飛行場を置いていた事もあり、沖縄戦では昭和20(1945)年4月16日から21日にかけて米軍による上陸作戦が展開され、島内一帯が空爆や艦砲射撃の標的となるなど熾烈な被害を蒙っている。特に現存する建物で唯一形を留めている「公益質屋跡」は村の中央公民館の脇にひっそり残されていて見るからに生々しい。特に海に面した南側の壁にでかい穴が空いているのは、海上の戦艦からの艦砲射撃を受けた痕だと言う。

国頭郡 伊江村

この公益質屋跡というのは昭和4(1929)年、世界恐慌の影響で個人の高利貸しがのさばり暴利に喘いでいた当時の貧民層を救う福祉事業の一環として低利で融資を行っていた施設で、がっちりとしたコンクリート建造物だったものが、沖縄戦における熾烈な攻撃に晒され壁に無数の弾痕や穴が開けられた状態で残っている。

国頭郡 伊江村

逆にこれだけ丈夫に作った建物だったので激しい攻撃に晒されても全壊する事なくこの場に残ったのだろうなと思うのだが、ここ以外の建物がまるっきり破壊され尽くして跡形も無くなったとも言える。当時の島の人口6600人の半数が疎開し、残った島民のうち半数の約1500人が6日間の戦闘の末命を落としたとされている。

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