地図から消えた人口1万3千人の街、幻のゴールドラッシュ…紋別市「鴻之舞鉱山」を訪ねる (全3ページ)

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北海道各所にある今は寂れてしまった炭鉱町を訪れた時、北海道の開拓の歴史と日本の近代化の歴史を重ね見る。国家は国力を増強すべく資源を求め、人々はそれぞれに富を求めて北の大地を目指し、末端の坑夫達は極寒の地で汗水を流して街を築き上げた。それらの街がことごとく役目を終えてゴーストタウンと化している現状は現在の北海道の衰退ぶりを示しているのか…夕張など空知地方の炭鉱跡は有名だが、一方で「ゴールドラッシュ」に湧いた金山も存在し、オホーツク沿岸にある紋別市にも日本国内屈指の金山を擁する鉱山町があった事を知り、訪ねる事にした。

紋別市 鴻之舞

これから向かう「鴻之舞鉱山」は「閉山後に無人化した」という点では長崎の軍艦島と共通している。ゆえに内心かなり期待して訪れた。紋別市街地から丸瀬布町(遠軽町丸瀬布)寄りに南へ30キロという距離にある。旭川方面から来ると国道333号で丸瀬布から分岐して金八峠を越えるコースになる。旭川から片道2時間の道程、丸瀬布町から先は集落もない原生林がひたすら続くが、そのうち「望郷の大煙突」と呼ばれている精錬所の巨大な煙突が現れ始めると、そこが目指していた鴻之舞地区である。

紋別市 鴻之舞

道路沿いからもよく見える精錬所の大煙突が、ここがかつて鉱山町だった事を物語っている。これも戦前からある現役時代からのものだが、綺麗に形を留めている。鴻之舞にあった金山は大正4(1915)年に発見され、その後の大正6(1917)年に住友に経営権が移り本格的に採掘が始まった。新潟県の佐渡金山、鹿児島県の菱刈鉱山に次ぐ日本第三位の産金量を誇っていた金山だが、鉱物が枯渇化したために昭和48(1973)年10月31日に全ての業務を停止し閉山、その後は不便な土地にあったこの鴻之舞地区は閉山後ひと月足らずの間にたちまち人が消え、人口ゼロの無人地帯になった。

紋別市 鴻之舞

鴻之舞橋の下を流れるのは「藻鼈川」(もべつがわ)という読めない漢字が混じった難読地名な川。紋別市の地名の由来だそうで。この藻鼈川沿いにかつて鴻之舞の街が形成されていて、無人化した現在も「鴻之舞元町」を筆頭に「喜楽町」「金竜町」「旭町」「泉町」「栄町」「末広町」「住吉町」といった地名が残っている。

紋別市 鴻之舞

今訪れると完全なるゴーストタウンで建物すらまともに残ってはいない土地なのだが、そんな鴻之舞には最盛期13000人もの人口があったというから今から思うと信じられないし想像すら働かない。家が一軒でも残っているどころのレベルではない。こうした案内看板に慰霊碑や歌碑、鴻紋軌道記念碑といったものが随所に残っている程度だ。

紋別市 鴻之舞

そしてこれも鉱山町にはつきものの「慰霊碑」。落盤事故などで多くの人々の命が失われた。そして他の鉱山町と同じく戦前期には朝鮮からの労働者も沢山いたそうで、最盛期で4500人程居た鴻之舞鉱山の鉱員の約半数が朝鮮人だったという時期もあったらしい。

紋別市 鴻之舞

「東洋一の大金山」がすなわち住友財閥の土台となり、日本国家と社会の礎となった訳だ。我々が今見ているのは愛媛県新居浜市にある別子銅山と並ぶ住友王国の栄華の痕跡なのである。そしてその歴史の影には危険な坑内作業で命を落としていった人々がいる。

紋別市 鴻之舞

旧集落の脇から伸びる未舗装路を奥に進むと「鴻之舞墓地」と案内が出ている場所がある。お堂とその傍らに「舎利窟」と刻まれた石碑が建っているだけ。草むらに紛れ込んだせいかも知れないが、共同墓地らしきものは見当たらない。それより車や身の回りに集ってくるアブが多すぎてどうにも落ち着かない。夏場の訪問は考えものである。

紋別市 鴻之舞

その代わり見られるのがこの煉瓦製の煙突である。こんな場所だけにまさか…と思ったが、案の定火葬場の煙突だったらしい。合掌。鴻之舞の場合も例によって朝鮮人は強制連行されて過酷な労働に云々、脱走者も多数出たという話が出てくるのだが、一方では鴻之舞での鉱員の生活は住友の指揮下で厳しく管理されていて比較的好待遇で朝鮮人差別といった事も殆ど無かったという話もある。どっちが本当なんだか。

紋別市 鴻之舞

かつての住人の信仰を受けていた大山祇(おおやまづみ)神社も、現在は神社の名前を刻んだ石柱や階段などの一部の遺構を残すだけで無くなっている。この大山祇神社は愛媛県大三島に総本山がある。同じ愛媛にある別子銅山の繋がりで勧請された神社だったのかも知れない。神社の敷地には立ち入りが出来なかった。

紋別市 鴻之舞

鉱山町には採れた鉱物を運搬するために鉄道を敷くのがつきものだが、鴻之舞も例に漏れずあったそうで、これがその記念碑。鴻紋軌道というのは紋別と鴻之舞を結んでいた軽便鉄道で、完成した頃には戦時体制に入り休山命令が出て、実際に活躍した時期が殆ど無かったという気の毒な鉄道路線。

紋別市 鴻之舞

記念碑横に残るコンクリートアーチは当時の軌道跡。鴻紋軌道が活躍していたのは昭和18(1943)年から23(1948)年までのたった5年間。戦時中で休止していた時期もあるので実際の稼働期間はほんの少しだった。戦後に道路が整備されて鉱物の運搬はトラックが主になっていて、鉄道では資材とか人員の運搬が殆どだったようで。まだまだ探せば橋脚とかが沢山残っているらしい。

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新日本DEEP案内およびDEEP案内シリーズ管理人兼編集長。2007年「大阪DEEP案内」開設、2008年「東京DEEP案内」開設、2009年「日本DEEP案内」開設、2010年「世界DEEP案内」開設、2013年「新日本DEEP案内」開設。
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