昭和な街並み、遊郭の名残り…日本が誇る大温泉都市「別府」は永久に不滅です

大分県

日本各地にある温泉街も「レジャーの多様化」とかいう理由で年々寂れる傾向にある訳で、熱海とか伊香保などの有名所を回ってきて廃墟ホテルだらけの光景を見た我々取材班としては九州の大分県にある日本一の温泉湧出量を誇る「別府温泉」にはいつか訪れたいと思っていたが最近やっと行く機会ができた。

別府温泉観光の父、油屋熊八伝説

という訳で辿り着いた別府温泉の玄関口、JR日豊本線別府駅前。電車で行くと小倉から特急ソニック号で約1時間20分、まあ我々は大阪南港からフェリーで来た訳ですが。今更ながら有名な観光地だけど大分県第二の都市でもある。

別府駅東口ロータリーには何やら両腕をバンザイして飛び掛ってきそうな格好の爺さんの銅像がさも大事そうに祀られておりますがこの人こそ別府観光の父と呼ばれる油屋熊八翁の像なるぞ。頭が高い、控えおろう。

瀬戸内海を挟んだ愛媛の宇和島生まれで大阪で商才を発揮して財を成した熊八は明治44(1911)年に現在の亀の井ホテルの前身となる亀の井旅館を創業、私財を投げ売って別府観光に注力してきた。そんな訳で駅前に銅像の一つくらい立つ程に偉大なお方なのである。

クリスチャンだった熊八は「旅人をねんごろにせよ」(Don’t forget to show hospitality to strangers.)との新約聖書の一文を合言葉に現在の温泉旅館の基礎を作り上げてきた。他にも逆さクラゲの温泉マークを発案したという話もあるがこれには諸説あり断定はできない。

熊八像の隣には温泉がコンコンと湧き出す手湯コーナーのモニュメント。どちらも2005年の別府駅リニューアル工事の際に設置されたもののようだ。

東口からまっすぐ海に向けて伸びる駅前通りを突き当たるとそこには大阪の通天閣にクリソツな前時代的センスの「別府タワー」がそびえ立っている。油屋熊八と並ぶ別府観光のシンボルマーク。2007年には国の登録有形文化財に指定。只者じゃない。

別府タワーは東京タワーよりも古い昭和32(1957)年に完成、長らく広告ネオンサインを出していた松下電器が撤退、経営難を迎えた時期もあったが何度も広告主が変わりながら現在は「アサヒビール」に落ち着き、営業を続けている。よく見りゃタワーがビルの上に建っているんですねこれ。

入場料200円を払って高さ55メートルの展望台へ続くエレベーターに乗りましょう。案の定そこには前時代的な観光地につきものの記念メダル刻印機が置かれていたのであった。

別府タワーの設計はかの有名な内藤多仲。道理で通天閣にクリソツな訳なのだが二代目通天閣に留まらず東京タワーや名古屋や札幌のテレビ塔など日本の各地にある6ヶ所の電波塔は全て多仲の設計との事でこんな案内板が貼られていた。

展望台から別府の街並みが広々と眺められます。オッサンキャラの新マスコット「別府三太郎」もお出迎え。無駄にスイーツ女子ウケを考えたりとかが全くありません。デートスポットにするには色気がなさすぎだがこれでいいのだ。

こうやって見ると結構都会なんだな別府という街は。山の麓の鉄輪温泉などもよく見えます。今回別府の色んな場所に行ってきた訳だがあまりにネタが多すぎて何からレポートしていいのやら困っちゃうわ、まいっちんぐ、という状況です。

県庁所在地の大分市とは高崎山で隔てられてはいるものの双方の中心市街地まで15キロくらいしか離れていない。

ライトアップされる夜の別府タワー。国道10号沿いにあってやたら目立っている。この別府タワーの北にある別府観光港からは愛媛県の八幡浜、宇和島、それに大阪南港行きのフェリーが毎日就航している。

大正元(1912)年に大阪・別府航路が開通して今年で100年。開通当時の別府港には大型船が接岸出来る桟橋がなく旅客は危険な艀での上陸を余儀なくされていた。その後大阪商船本社に掛け合い別府港に桟橋を設置させた熊八の功績で、関西からの観光客が増えた別府温泉は大いに栄える事となった。未だにフェリーの往来が盛んなのもその時代からの名残りである。

そもそも油屋熊八も宇和島から大阪に行き別府に来た人間だし、別府という街自体、昔から四国や関西との繋がりが深い土地柄であることがよく分かる。

別府温泉の隆盛を語るに欠かせない油屋熊八の話で前置きが長くなったがそろそろちゃんと街歩きしたいと思います。

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